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2024年5月10日 (金)

寺町通北部の寺院たち

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※写真は全てクリックで拡大します。

先日、寺町通にある織田信長ゆかりの阿弥陀寺を紹介しましたが、その辺りから北には小さな寺院が並んでいます。お寺ではありませんが、阿弥陀寺の少し南に「大谷大学真宗総合研究所」という看板が目につきました。

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ここは大谷大学の学術研究の施設で、真宗に限らず仏教全般に関する研究を行っています。研究所が推進する研究には「指定研究」と「一般研究」があるそうです。(路地を入ると古い建物が並んでいます。)

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指定研究として2024年度は「「大谷大学樹立の精神」100年 」「国際仏教研究」「東アジア・北アジア仏教研究」「大学史研究」「仏教写本研究」「チベット文献研究」「宗教・社会研究」の7つの研究班があるそうです。

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一方、一般研究には、学内公募によって採択された研究期間1年の予備研究と、科学研究費助成事業に採択された研究があります。この研究所は専任研究員はおかず、各学科の教員が兼任で研究員を務めているそうです。

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阿弥陀寺の北にある「光明寺」は室町時代(戦国時代)後期の天文5年(1536)性誉宗鎮和尚が現在地に創建した浄土宗寺院で、現在は百万遍知恩寺の末寺です。

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当初は広大な伽藍がありましたが、天正15年(1587)の兵火により焼失して現在の規模となりました。山門には「光明院」の寺札と「金剛禅総本山少林寺 京都京極道院」の表札がかかっています。

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本尊の阿弥陀如来は慈覚大師・円仁作といわれ、実信房蓮生(れんしょう、宇都宮頼綱)ゆかりの伝説があります。「宇都宮頼綱(よりつな)」(1172-1205)は、下野国(栃木県)に生まれ、豪族・宇都宮氏の第5代当主を継ぎました。

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北条時政の娘をめとり、鎌倉幕府の有力御家人となります。しかし、元久2年(1205)謀反の嫌疑をかけられて出家、「実信房蓮生(れんしょう)」と号して上洛して法然上人に帰依しました。「本堂」

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ある夜、夢の中で深山幽谷をさまよっていた蓮生が夜空を見上げると、白玉に飾られて光り輝く阿弥陀如来がいました。蓮生が「どこから来られたのですか?」と尋ねると「善光寺から」と答えたといわれます。

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そして、夢から覚めた蓮生の目の前に高さ3尺(約90cm)ほどの阿弥陀如来がいました。蓮生は、念仏を唱えながら手をさしのべて如来の手をとり、抱き留めて自分の袈裟をかけたといわれます。本堂の左奥に庫裏があります。

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その後、阿弥陀如来を高野山光明院に移して祀りました。室町時代に高野山光明院が火災にあったとき、土の中に深くもぐっておられて無事だったといわれます。

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性誉宗鎮和尚が創建したこちらの光明寺に移された後、天明の大火(1788)で堂宇が火災になったときにも、本尊は傷一つなかったといわれます。本尊は今に伝えられ、(頼綱)抱止阿弥陀如来とも呼ばれます。

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「慈福寺」山号を〓照山という浄土宗の寺院だそうですが、由緒はどこを探しても見つかりません。唯一の手掛かりは山門の前にある石標で、「江州横田川御出現 洛北第十一番正観世音菩薩 此次上之町不動堂」と刻んであります。

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「横田川」は、淀川水系の野洲川で甲西町横田橋の付近にあり、「洛北第十一番」は「洛北三十三所(霊場)」第11番札所のことです。結局、滋賀県の横田川に出現した正観世音菩薩が札所の本尊のようです。

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石標の最後の「此次上之町不動堂」は次の札所で、明治維新(おそらく廃仏毀釈)により廃寺となった長福寺の不動堂(石不動)です。洛北三十三所もその頃廃れて、現在ではこれら2寺の名前しか分かりません。境内は工事中でした。

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『拾遺都名所図会』では、長福寺は京極通条違橋(すぢかひばし)の北にあると書かれています。京極通は現在の寺町通のことです。南隣の光明寺は「京極通条違橋の南にあり浄土宗百万遍に属す」とあります。

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条違橋がどこを指すのか分かりませんが、光明寺と慈福寺の北に廃寺となった長福寺があったことは確かなようです。こちらが本堂のようで、新しい瓦が下に置いてあったので、屋根の修理だと思われます。

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「鶴山児童公園」慈福寺の北隣にあり、おそらく上述の長福寺があった場所だと思われます。

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「大歓喜寺」臨済宗の単立寺院(尼寺)です。創建の時期や経緯などの詳細は不明ですが、開基として夢嵩良真(むすうりょうしん、鎌倉時代)や広照禅師(室町時代)など、臨済宗の僧侶の名があがっています。

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創建当初は、般舟院(千本今出川)の北隣付近にあったといわれます。 室町時代の応仁の乱(1467-1477)で焼失、天文年間(1532-1555)に浄福寺の東に移り、安土桃山時代の天正年間(1573-1592)に現在地に移りました。

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安土桃山時代以降は天龍寺に属し、住僧は代々大聖寺住尼の戒師を務めました。大聖寺は京都の門跡尼寺の最上位で「御寺御所」とも称されました。大歓喜寺には、江戸時代末期まで大聖寺門跡となった歴代の皇女尼僧が葬られました。

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こちらが大歓喜寺の建物で、表札には大歓喜寺とともに「中世日本研究所」の名があります。平成13年(2001)コロンビア大学名誉教授のバーバラ・ルーシュ女史が、当時空き家になっていた庫裏を借りて設置した研究所です。

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東アジア地域における女性と仏教の歴史の研究、京都・奈良における尼門跡調査、修復プロジェクトなどが行われているそうです。同じく名がある「女性仏教文化史研究センター」は同女史が設立したコロンビア大学の施設です。

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「長休寺」山号が勝徳山、真宗大谷派の寺院という以外、こちらも情報がありません。ただし、後で意外な場所でこの寺の墓地を見つけ、お寺の由緒の手がかりとなるかも知れません。

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京都には多くの寺院があり、ネットなどで調べても名前が登場しない場合があります。そのような寺院の由緒を想像するのも京都を歩く楽しみの一つです。

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コメント

こんばんは。ゆーしょーです。
京都は2枚目の写真のような
狭い道が多いすね。
和歌山も戦前はこのような道が
多くありました。
だが戦災に遭って戦後は
道幅が広くなりました。
こどもの頃、狭い道でかくれんぼ
などしてよく遊びました。
ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2024年5月11日 (土) 00:02

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