知恩院 新緑の境内をめぐる
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先日いもぼうで食事をした後、知恩院を訪れました。「知恩院」は、承安5年(1175)に法然上人が吉水の地に結んだ草庵を起源とし、没後の遺跡に建てられた浄土宗の総本山です。
第2世源智上人により基礎が築かれ、徳川家康、秀忠、家光らの援助により現在の伽藍が形成されました。「三門」(国宝)は元和7年(1621)に二代将軍・秀忠によって建立され、我が国最大級の木造二重門です。
三門から続く石段は男坂(男段)と呼ばれ、それぞれの段が高く急こう配でちょっと後悔しました。三門の右手には緩やかな女坂があります。
「朱印所」、数珠玉も授与されます。境内には大勢の修学旅行生がいて、左の女坂からも上ってきました。ここから境内の西にあるお堂を見て回ります。
「七百五十万霊塔」 昭和33年(1958)の法然上人七百五十年大遠忌の際に建立されたコンクリート造りの多宝塔です。
「阿弥陀堂」 源智上人によって勢至堂の前に建立され、宝永7年(1710)に現在の位置に移築、明治43年(1910)に再建されました。明治に建てられた唯一の建造物で、本尊として高さ2.7mの阿弥陀如来座像を祀ります。
御影堂と阿弥陀堂をつなぐ渡り廊下をくぐります。
「宝物収蔵庫」 目立たない場所にあり、収蔵品は分かりません。
「五輪塔」(鎌倉時代後期) 知恩院が慶長年間(1596-1614)に寺域を拡張したとき、この場所に速成就院という寺院があり、五輪塔はその遺物といわれているそうです。
こちらは集会堂と御影堂を結ぶ渡り廊下です。
「四脚門」御影堂と集会堂を隔てる門で寛永年間(1624-1643)の建立、切妻造り・本瓦葺きです。小ぶりな門ですが反りのある屋根瓦が目立ちます。
「集会堂(しゅうえどう)」(重文) かっては「衆会堂」とも称し、寛永12年(1635)に建立。俗に千畳敷といわれるほど広いお堂です。正面は「武家門」。
「新玄関」(重文) 大庫裏、小庫裏、対面所と東に並ぶ建物への玄関です。
この日は天気がよくて、境内の新緑がさわやかでした。
「北門」をくぐると石段の下に黒門がありますが、この日はここから引き返しました。
「泰平亭」 線香やお香、匂い袋、お茶やお菓子などを扱う売店で、オンラインショップもあります。無料休憩所のお茶所を併設しています。
郵便局のEV集配車が向うの車が通れる道(南防災道路)から上ってきました。日本郵政グループでは2050 年のカーボンニュートラルの実現を目指して、全国の郵便局に1,800台以上の『ミニキャブ・ミーブ』を導入しているそうです。
「御影堂(みえいどう)」(国宝)、知恩院の中心となる建物で「大殿」とも呼ばれ、法然上人の御影を祀ります。念仏の根本道場として、毎年4月に法然上人の御忌大会(ぎょきだいえ)、12月の御身拭式(おみぬぐいしき)などが行われます。
当初の建物は寛永10年(1633)の火災で焼失、寛永16年三代将軍・徳川家光によって再建され、平成30年度末に平成大修理が完了しました。
「寶佛殿(ほうぶつでん)」 平成4年に建てられた納骨堂です。堂内には阿弥陀如来像・四天王が安置されており、地下に遺骨が奉安され永代供養されます(10日前までに予約が必要)。
「納骨堂」 昭和5年に造立され、合祀で遺骨を納めています。堂内に阿弥陀三尊像・二十五菩薩が安置され、地下に遺骨が奉安されます(予約不要ですが「火葬許可証」の原本が必要な場合があります)。
「経蔵」(重文)三門と同じ元和7年(1621)の建立。2代将軍・徳川秀忠の寄附によって『宋版一切経』約6千帖が奉納されました。それを安置している八角輪蔵を一回転させれば『一切経』を読誦するのと同じ功徳があるとされます。
正面は「大方丈」、右の石段を上ると「勢至堂」や法然上人の「御廟」がありますが、この日は向うには行っていません。
寶佛殿の横の坂道を上って大鐘楼に向かいます。
「大鐘楼」は延宝6年(1678)の造営、釣鐘は寛永13年(1636)の鋳造で、高さ3.3m、直径2.8m、重さ約70トン。知恩院の釣鐘は、京都方広寺、奈良東大寺と並ぶ大鐘として知られています。
大鐘が鳴らされるのは法然上人の御忌大会(4月)と冬の風物詩・大晦日の除夜の鐘だけです。最後の写真は、昨日の夕方に現れた二重の虹です。
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