上御霊神社 御霊信仰と応仁の乱
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先日閑臥庵で食事をした後、近くにある上御霊神社を訪れました。上は「南門」で伏見城の四脚門を移築したものと伝えられています。
上御霊神社は正式には「御霊神社」といい、延暦13年(794)平安遷都にあたり、桓武天皇が都の守り神として弟・崇道天皇(早良親王)をこの地に祀ったのが始まりとされます。
早良(さわら)親王は、延暦4年(785)造長岡宮使の藤原種継暗殺事件に連座して親王を廃され、淡路国に配流の途中、無実を訴えるため自ら食を断って自死しました。「楼門」は江戸時代中期の寛政年間(1789-1801)に再建されたものです。
その後、桓武天皇の皇后や藤原乙牟漏(おとむろ)が相次いで死去、長岡京で疫病が流行、皇太子の安殿(あて)親王(平城天皇)も病となり怨霊に悩まされました。いつしか、早良親王の崇りといわれるようになりました。(楼門を守る「右大臣」)
一方、それ以前の宝亀4年(773)井上内親王(光仁天皇皇后)は難波内親王(光仁天皇の同母姉)を呪詛し殺害したと疑われ、皇太子の他戸親王と共に地位を廃されました。大和国宇智郡に幽閉され、同6年他戸親王と同じ日に死去しました。「左大臣」
まもなく天災地変がしきりに起こり、二人の怨霊と恐れられ、井上内親王は竜になったという噂が立ちました。同8年(777)、光仁天皇は遺骨を改葬させ、墓を御墓(皇室の墓)と追称しました。「授与所」
早良親王の死後再び天変地異が起こったので、皇后や親王らの霊を慰めるために、延暦19年(800)に早良親王を崇道天皇と追号し、井上内親王を再び皇后と追称し、墓として山陵を構えました。また、その怨霊をなだめ祀るために廟をたてました。
その廟は御霊社と呼ばれ、後の上御霊神社の始まりとされます。正確な創祀年月は不明ですが、神社では平安遷都の延暦13年(794)としています。「拝殿」
大同元年(806)桓武天皇の皇子・伊豫親王は、異母兄平城天皇が即位して皇太子となりました。しかし、翌年藤原宗成が謀反を謀ったことから疑われ、母藤原吉子とともに捕えられて川原寺に幽閉、毒を飲んで母子ともに自害しました。
朝廷は承和6年(839)伊豫親王に一品、母藤原吉子には従二位を追贈し、御霊社の南に霊廟・下御霊社を建てました。一品(いっぽん)は親王の位階の第1位です。「本殿」
この時代には天災地変や悪疫の流行は、無実の罪をきせられ非業の死を遂げた人たちの怨霊のたたりによるものと信じられるようになり、御霊社には同様の運命をたどった橘逸勢と文屋宮田麿を合祀して祭神は六座となりました。
貞観5年(863)朝廷は神泉苑において、非業の死を遂げた人々の怨霊をなだめ祀るために初めての御霊会を催しました。怨霊を鎮め祀った上御霊神社は「御霊信仰発祥の地」と呼ばれています。
その後、吉備真備と火雷神(からいしん)を加えて八座となりました。しかし吉備は文武天皇の皇女吉備内親王、火雷神は菅原道真であるとの説があります。上御霊神社では「当社の祭神については古来諸説あって、確定していません」としています。
祇園祭をはじめとして京都の夏祭りの多くは御霊会がもとになっていて、御霊神社の祭礼はそれらの起源と考えられています。この後、境内にある史跡を見て回ります。
中央の参道脇に松尾芭蕉の句碑があります。芭蕉は元禄3年(1690)当社に参詣して「半日は神を友にや年忘」の句を奉納しました。
隣に新村出の歌碑があります。広辞苑の編者で知られる新村出は京都帝国大学時代から終生この近くに住み、80歳のときに歌を奉納しました「上御霊のみやしろに 詣でてよめる 千早振る神のみめぐみ ふかくして 八十ぢに満つる 幸を得にけり」
参道を挟んだ向かいには富士谷御杖の詩碑があります。富士谷は江戸時代の著名な国学者で、詩は文政年間の本殿造営に際して寄せられたものだそうです。詩は長いので省略します。
本殿の南に「清明心の像」があります。国際児童年(1979)にあたり生命の尊重と子供達の健やかな成長を祈り、中国宋代の学者司馬温公の故事に拠って建立されました。水を張った甕に落ちた子供を救うため、大石で甕を割ったという話です。
境内には多数の摂社・末社がありますが、そのうちの一つだけを。境内の南東の隅に、倉稲魂命を祀る「福寿稲荷神社」があります。田の神として既に平安時代には稲荷信仰が盛んとなりましたが、この神社の創建時代は不明だそうです。
元禄15年(1702)に奉納された石灯籠があるので、創建はそれ以前です。五穀豊穣、福徳円満、長寿延命、生業繁栄のご利益があるとされます。
南門の横にある「御車舎」 江戸時代初期、後陽成天皇が上皇当時に寄進した牛車を収める蔵です。2015年、景観条例に基づく「景観重要建造物」に寺社として初めて神御霊神社が指定され、その補助によって御車舎の改修が行われました。
その後、絵馬所、四脚門(南門)を修復。昨年総仕上げとして楼門(西門)の修復が完成、3月18日には大修造完了記念式典が行われました。市長や修復事業に貢献した元宮司、千玄室奉賛会会長などが出席したそうです。
ところで、上御霊神社は応仁の乱発祥の地でもあります。応仁の乱は室町時代の応仁元年(1467)幕府管領家の畠山、斯波氏の家督争に始まり、細川勝元と山名宗全の勢力争い、将軍足利義政の継嗣争いも加わりました。
正月17日の深夜、畠山政長は自邸を焼いて一族や奈良の成身院光宣らと約二千の兵を率いてこの地に布陣しました。 上は楼門前にある「応仁の乱勃発地」の石碑、下は御車舎の横にある「御霊合戦旧跡」の石碑です。
翌日早朝、政長と家督を争っている義就が兵三千余で攻撃、終日激しい戦闘が続きました。義就方には朝倉孝景、ついで山名宗全が加勢しました。政長方は頼みの細川勝元が動かず、まる1日の合戦ののち敗退しました。「絵馬所」
これが応仁の乱の前哨戦「御霊合戦」です。3月に年号が応仁となり、細川、山名両陣営ともに味方を集めて体制をかため、東西両軍の全面的な戦乱になりました。
戦いは全国に拡大し11年間続き、京都は焼きつくされました。「御霊合戦旧跡」の石碑は東陣の総大将細川勝元の末裔、細川護熙(もりひろ、元総理)の揮毫だそうです。
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コメント
こんばんは。ゆーしょーです。
メチャ立派な楼門ですね。
神輿の絵馬って初めて見ました。ポチ♪2
投稿: ゆーしょー | 2024年4月 7日 (日) 00:02
★ゆーしょーさん こんばんは♪
絵馬の神輿は、洛中洛外図屏風に描かれたものです。神社にとって特別なもののようです。
投稿: りせ | 2024年4月10日 (水) 00:58