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2024年3月 4日 (月)

北野天満宮 真実の菅原道真

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日は北野天満宮に行ってきました。毎年の恒例のようになっていますので、今日は境内の説明は省略して、今までとは違う菅原道真を紹介したいと思います。「一の鳥居」

『忠臣蔵』のように、実際の出来事を後世に脚色して創作された物語にも関わらず、多くの人が史実だと信じている事件が日本の歴史にはいくつかあります。菅原道真の場合、大宰府に左遷させられたのは事実ですが、

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理由がライバルとされる藤原時平の諫言(つげ口)であるとされていることが確かではありません。この諫言は鎌倉時代の承久年間(1219-1222)に成立した『北野天神縁起絵巻』にも描かれています。道真の母を祀る「伴氏社」

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以下では、歴史上確かだといわれる資料をもとに、道真が左遷させられた事情を調べてみます。菅原氏は、祖父・清公と父・是善はともに文章博士・大学頭に任ぜられ、侍読も務めた学者の家系でした。

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当時の式部省(現在の人事院)直轄の官僚育成機関「大学寮」の教官が文章博士(もんじょうはかせ)、その長が大学頭(だいがくのかみ)です。今では大学の学長は尊敬される立場ですが、当時の貴族からは中流の役職と見なされていました。

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仁和4年(888)阿衡事件(内容は省略)が発生し、摂政藤原基経が宇多天皇の側近・橘広相の処罰を求め、当時任地にいた道真は入京して、橘広相を罰しないように意見書(奉昭宣公書)を寄せて諌めたとされます。「楼門」

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この事件の後も厚い信任を受けていた橘広相が病没し、宇多天皇は代わる側近として道真を抜擢しました。891年道真は天皇にもっとも近い蔵人頭に補任され、893年には参議兼式部大輔に任ぜられて公卿に列し、左大弁を兼務しました。「花手水」

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895年参議在任2年半で、先任者3名を越えて従三位・権中納言に叙任。この間、菅原道真は長女・衍子を宇多天皇の女御、三女・寧子を宇多天皇の皇子・斉世親王の妃とし、皇族との間で姻戚関係を強化しました。

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897年藤原時平が大納言兼左近衛大将となると、道真は権大納言兼右近衛大将に任ぜら、この二人が太政官の長となる体制になりました。この年、宇多天皇は敦仁親王(醍醐天皇)に譲位、道真を引き続き重用するよう強く求めました。「白太夫社」

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醍醐天皇はまだ幼く、宇多上皇は藤原時平と道真にのみ官奏執奏の特権を許しました。道真はその後も宇多上皇の御幸や宴席に従うなど、上皇の側近としての立場も保ち続けました。「福部社」

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藤原時平は権勢を誇った藤原基経の長男で、実力を備えたエリートでもありました。同僚を飛び越え特階、特進を続け899年左大臣に上りました。同年、道真も右大臣に昇進して、時平と道真が左右大臣として肩を並べました。「老松社」

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二人が大臣のとき、時平は情に任せて裁決を行い、有職故実に詳しい道真がその都度異を唱えて対立しました。道真は後援者の宇多上皇を何度も訪ねて相談、上皇は天皇に道真に政務を委ねるよう迫りました。「火之御子社(ひのみこしゃ)」

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しかし、醍醐天皇は時平を信頼して、朝廷では宇多上皇と道真、醍醐天皇と時平という二派が形成されたともいわれます。また、道真は家格が低いことや出世につけての中傷が増えたため辞退したいと申し出ましたが、悉く却下されたといいます。「三光門」

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900年には右近衛大将の辞意を示しましたが、これも却下されたといいます。宇多上皇の意向だと考えられています。この頃、文章博士・三善清行が道真に引退して生を楽しむよう諭す文章を送っています。

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901年正月に従二位に叙せられたが、間もなく「宇多上皇を欺き惑わした」「醍醐天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀った」として、1月25日に大宰員外帥に左遷させられました。

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醍醐天皇の日記『醍醐御記』には、太宰府に道真を見舞った藤原清貫の復命として、道真は自分から企てたのではないが、源善(道真と同時に出雲権守に左遷)の誘いを断り切れなかったと語っていた記述があるとのことです。「飛梅」

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一方で、上皇の手前もあり醍醐天皇は大宰員外帥というポストを用意しました。大宰府は海外の窓口で、外交に詳しかった道真を任命したという説もありますが、唯一の海外交流だった遣唐使は道真の進言で廃止されていました。

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大宰員外帥は別に長官がいる閑職で、左遷というのは事実だといえます。この事件は「時平の讒言」によって起こったという記述は、200年以上後に道真の後裔・菅原陳経が書いた『菅家御伝記』(1106年)が最初だといわれています。「本殿」

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醍醐天皇は退位してもいつまでも政治に干渉する宇多上皇の力を排除するために、道真を追放したともいえます。その後、時平は宇多上皇と和解に努め、意欲的に政治改革に着手しました。902年自らが権門勢家の頭領だったにも関わらず、

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荘園整理令を出し班田を実行しました。醍醐天皇の皇子の村上天皇の時代をあわせて「延喜・天暦の治」とよばれ、律令国家体制から王朝国家体制へ移行する過渡期の様々な改革が行われ、後世の天皇の模範となる時代だといわれています。「地主社」

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道真の死後、都には大雨、鴨川の氾濫、落雷や火災、疫病などの災害や異変が相次ぎました。清涼殿に落雷があり、多くの死傷者が出て、左遷に動いた藤原菅根が変死、藤原時平も急逝、天皇家にも不幸が続きました。「文子天満宮」

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人々は道真の怨霊の仕業と恐れ、道真ゆかりの各地に道真を祀る神社が創られました。 また、様々な災厄をもたらした道真の怨霊を、神として祀ることによって厄除けのご利益があると信じられました。

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このような御霊信仰にもとづいて、947年御神託(神様のお告げ)により平安京の天門(北西)にあたる北野の地に北野天満宮が創建されました。987年に一條天皇の勅使が派遣され、国家の平安が祈念されました。「御后三柱」

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この時、天皇より「北野天満大自在天神」の御神号を賜り、菅原道真は「天神さま」として祭神となりました。当初は道真の境遇を反映して厄除けや諸願成就などを祈願したといわれています。

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道真が学者として優秀だったので、学問の神として祀られたというのも正確ではありません。実際に北野天満宮がHPで道真が学問の神となったいきさつを以下の様に説明しています。「牛社」と合格祈念の「絵馬所」

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江戸時代には、各地に読み書き算盤を教える寺子屋が普及し、その教室に道真の姿を描いた「御神影」が掲げられて、学業成就や武芸上達が祈られました。後に道真が「学問の神」として知られるようになった由縁のひとつだそうです。

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コメント

歴史の真実は、分からない事があるから面白いですよね。
知っているのは事実だけで、菅原道真以外にも、
いろんな真実がある気がします。

投稿: munixyu | 2024年3月 4日 (月) 17:45

こんばんは。ゆーしょーです。
天神さんと言えば梅ですよね。そして牛ですよね。
梅の花がとてもきれいです。
毎月25日は「天神さんの日」で知られ賑わうのですね。
東寺へは毎年のように12月21日に行きましたが、
北野天満宮へは行ったことがないのです。ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2024年3月 5日 (火) 00:32

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