泉涌寺 解脱金剛宝塔
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先日、特別公開されている泉涌寺の雲龍院に行く途中「解脱金剛宝塔」という大きな石標を見かけました。石段を上っていくと広場があって、向かいは泉涌寺の経堂です。
広場には高さ約10mの大きな石塔が立っていました。解脱金剛宝塔(げだつこんごうほうとう)は、「解脱会」の会祖・岡野聖憲と信者たちの遺骨を収める宝塔だそうです。以下では、この会の宝塔が泉涌寺に建てられた経緯を紹介します。
岡野英蔵(法名・聖憲)は、明治14年(1881)埼玉県北本市の農家の次男として生まれ、高等小学校卒業後、酒屋奉公、日雇労働者などを経験したのち、海運会社に就職。番頭まで出世して事業を発展させました。「解脱金剛碑」
大正5年(1916)結婚したあと独立して東京の日本橋で海運会社を立ち上げました。しかし、事業面で苦境に立ち、また、大正14年に病を患ったことから宗教に関心を持ちはじめたようです。
各地の神社仏閣を訪れているうちに、昭和4年(1929)実業界から決別して宗教家となることを決意しました。解脱会ではこの年を立教の年としているそうです。搭の説明が刻んであります。
昭和4年(1929)最初の道場「解脱教会本院」を北本市に開き、昭和6年醍醐寺三宝院で出家得度して「聖憲」の法名を授かりました。その後、日中戦争から太平洋戦争になると、奉献金活動や慰問活動などを行いました。
聖憲は皇室至上主義、国粋主義思想を持ちつつも、日本軍だけでなく中国軍や米軍の戦死者も供養したといわれます。昭和16年からは皇室との関わりが深い伊勢神宮・橿原神宮・泉涌寺を聖地と定めて参拝を行うようになりました。「度数拝礼碑」とあります。
敗戦後の混乱期にはクズ繊維を集めて織物に更生する方法を信者たちに教えて生活を助けたとされます。また、聖憲の思想に共鳴した旧日本兵らの入会もあり会員が増え、昭和22年宗教法人「解脱報恩感謝会」が設立されました。
昭和23年には泉涌寺東林町に関西道場を開くも、同年11月4日糖尿病と慢性腎炎を併発して67歳で死去しました。醍醐寺三宝院から「解脱金剛」の諡号が贈られ、昭和29年には大僧正位が追贈されました(この後、雲龍院を訪れました)。
生前の聖憲はまとまった教義を整備しておらず、高弟が聖憲の講話や言動を整理して教団の教義を体系づけ、昭和31年には小田原市に湘南道場を開き、昭和36年に宗教法人解脱会に改称しました(泉涌寺と塔頭を訪れたあとの帰り道です)。
解脱会は戦前より泉涌寺・醍醐寺との関係が深く、昭和14年解脱会は泉涌寺と結縁を成し、敗戦により維持・運営に困難をきたしていた泉涌寺を援助しました。昭和29年「解脱金剛宝塔」が泉涌寺境内に建立されました。泉涌寺の総門を出ます。
岡野聖憲の命日である昨年11月4日には、泉涌寺で解脱金剛75年祭が行われ、新たに62霊が斎祀されました。午前11時舎利殿において泉涌寺長老の上村貞郎を導師に第1部の法要が行われました(泉涌寺道の途中に「解脱会関西道場」がありました)。
仏殿横に特設舞台が設けられて第2部式典が挙行され。解脱会の岡野理事長から上村長老へ献納の目録が手渡された後、仲田順和醍醐寺座主の祝辞などがが行われたそうです。
一方、解脱会は東京の本院に「真言宗醍醐派醍醐教会解脱分教会所」を併設して、真言宗醍醐派を上部団体と位置づけ教団活動を行っています。春の「醍醐寺」
2009年に行われた醍醐寺開祖・聖宝理源大師1100御遠忌大法要では、10月17日に護摩道場で柴燈護摩法要が行われ、その後、金堂で解脱会による法要が行われました。「醍醐寺金堂」
帰宅のバス停がある東大路通に出ました。最後は泉涌寺道の入口。
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コメント
春の醍醐寺。
今年の桜は、どうなるのでしょう。
暖冬と言われていますし、少し早くなるのかも
しれませんね。
とにかく春が待ち遠しいです。
投稿: munixyu | 2024年2月16日 (金) 16:30