西本願寺 その伽藍と歴史
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昨日は「京の冬の旅」で特別公開されている西本願寺・飛雲閣に行ってきました。その前に、今日は西本願寺の伽藍をみながら、その歴史を振り返れります。正式名称は「本願寺」で西本願寺はその所在地からの通称です。
TOPの手前は江戸末期に建造された「総門」(重文)で一間高麗門、切妻造、南北袖塀付、本瓦葺、下は明治時代(1911)に建立されたは「御影堂門」(重文)で三間三戸二階二重門、入母屋造、左右繋塀及び山廊附属、本瓦葺です。
親鸞聖人が弘長2年(1263)に90歳で亡くなると、東山の鳥辺野の北の大谷に石塔が建てられ、遺骨が納められました。しかし、その墓所はきわめて簡素なものでした。 門の向こうは江戸後期建造の「目隠塀」(重文)。
10年後の文永9年(1272)、晩年の聖人の身辺の世話をした末娘の覚信尼(かくしんに)や門弟達は吉水の北に六角の廟堂を建て、親鸞聖人の影像を安置し遺骨を移しました。「鐘楼」(有形文化財)元和4(1618)建造です。
大谷廟堂は、敷地を寄進した覚信尼が廟堂の守護をする留守職(るすしき)となり、第3代には覚信尼の孫の覚如(かくにょ)上人が就任し、元亨元年(1321)ころに本願寺と公称しました。 「御影堂」(重文)は寛永13年(1636)の再建 。
覚如上人の晩年から次の善如(ぜんにょ)上人にかけて、廟堂内の親鸞聖人の影像の横に本尊の阿弥陀仏像を安置しました。これが本願寺に御影堂と阿弥陀堂が並置される始まりです。左は「手水舎」(重文)、正面は「お茶所」。
第7代の存如(ぞんにょ)上人のとき、北に5間四面の阿弥陀堂、南に3間四面の御影堂を並置して建て、それぞれに親鸞聖人の影像と阿弥陀仏を安置しました。「阿弥陀堂」(国宝、本堂)宝暦10年(1760)の再建です。
室町時代中頃の第8代蓮如上人は、教えをだれにでも分かるようにやさしく説き、本尊を統一、「御文章(ごぶんしょう)」を著して積極的な布教を展開しました。 「鼓楼」(重文)江戸後期(1789年)の建造。
「経蔵」(重文)江戸中期(1678年)の建造で、寛永12年(1635)に天海僧正が開版した『大蔵経(一切経)』が納められています。
蓮如上人の教えは近江をはじめとする近畿地方や東海、北陸に急速に広がりました。 しかし、上人の布教は比叡山を刺激し、寛正6年(1465)比叡山衆徒によって大谷本願寺は破却されました。「浄土真宗本願寺派伝道本部」、新しい建物です。
聖人は難を避けて近江を転々とし、親鸞聖人像を大津の近松坊舎に安置して、越前(福井県)吉崎に赴きました。その教えに共明した門徒たちは武装して一揆を起こすに至りました。「安穏殿」、本願寺内務室でこちらも新しい建物です。
上人は争いを鎮めようと吉崎を退去し、河内(大阪府)出口を中心に近畿で布教しました 文明10年(1478)には京都山科で本願寺の造営に着手、同12年に念願の御影堂を再建、ついで阿弥陀堂などの諸堂を整えました。
上人の布教によって、教えは北海道から九州に至る全国に広まりましたが、明応8年(1499)85歳で亡くなりました。この後、山科本願寺は次第に発展しました。(阿弥陀堂に上がりました。)
第10代証如上人の天文元年(1532)六角定頼や日蓮衆徒によって焼き払われると、蓮如上人が創建した大坂石山御坊に移りました。
しかし、天下統一を目指す織田信長にとって本願寺の大きな勢力が障害となり、ついに元亀元年(1570)両者の間に石山戦争が勃発しました。「阿弥陀堂門」(重文)江戸後期(1802年)の建造です。
以後11年にわたり戦いは続きました。各地の一揆勢も破れたため、第11代顕如(けんにょ)上人は仏法存続が第一と天正8年(1580)信長と和議を結び、大坂石山本願寺を退去ました。渡り廊下を御影堂に向かいます。
その際、長男・教如上人は徹底抗戦をとなえ籠城しました。顕如上人は紀伊(和歌山)鷺森に移り、さらに和泉(大阪府)貝塚の願泉寺を経て、豊臣秀吉の寺地寄進を受けて大坂天満へと移りました。「本願寺式務部」
天正19年(1591)秀吉の京都市街整備計画によって本願寺は再び京都に帰ることになり、六条堀川の現在地を選び、阿弥陀堂・御影堂の両堂が完成した文禄元年(1592)、顕如上人は積年の疲労で倒れ50歳で亡くなりました。
一旦、長男の教如上人が跡を継がぎました。しかし、如春尼(教如の母)が顕如上人の遺言状を持って秀吉に直訴。秀吉から10年後の隠退を勧告されました。 (縁側や廊下には節穴を補修する埋め木がみられます。)
教如上人は従うつもりでしたが、強硬派の僧たちが遺言状の真偽を言い立てたため、秀吉の怒りをかい即刻隠退させられました。
その後、教如上人は徳川家康に接近し、慶長7年(1602)家康から烏丸七条に寺地を寄進され、翌年ここに御堂を建立しました。これが大谷派本願寺(東本願寺)です。
教如上人が徳川家康に接近したとするのは西本願寺からの見方で、家康には別の狙いがあったといわれています。天下人となった豊臣秀吉は、京都のランドマークになるべく方広寺を建立して東大寺より大きな大仏を設置、その参道として「正面通」を開きました。
さらにその西端近くに西本願寺の寺領を与え、その二つを結ぶ正面通は豊臣家の権威の象徴でした。秀吉は慶長3年(1598)に没し阿弥陀ヶ峰に葬られ豊国廟が建てられ、その麓に豊国神社が建立されました。これらは正面通の東の延長にあります。
家康が関ヶ原の戦いで勝利した後も、豊臣家の影響力が残っていました。西本願寺と方広寺、豊国神社の間に東本願寺を置くことによって、本願寺勢力を分断し、秀吉の神格化をも阻止する狙いがあったといわれています。飛雲閣が見えてきました。
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コメント
顕如上人は積年の疲労で倒れ50歳で他界。
やっぱりストレスがあると短命になるのですね。
ストレスのない穏やかな暮らし・・・。
分かっていたとしても簡単なようで難しいかもしれません。
投稿: munixyu | 2024年2月18日 (日) 17:56
こんばんは。ゆーしょーです。
僕の母方は西本願寺です。
浄土真宗本願寺派のお寺が集まって
年に1回団体バスで京都まで
お参りに行っています。
僕は参加したことがないのですが
個人で2~3回行ったことがあります。
京都駅前に、東本願寺と西本願寺が建っていますね。
すごいお寺です。
投稿: ゆーしょー | 2024年2月19日 (月) 01:52
ポチ♪2
投稿: ゆーしょー | 2024年2月19日 (月) 01:52