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2024年2月 7日 (水)

夕暮れの積善院準提堂

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

一昨日の記事の須賀神社の節分に行ったとき、向かいの積善院も訪れました。「積善院」は「積善院凖提堂」あるいは「五大力さん」とも呼ばれ、聖護院の塔頭寺院です。

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五大力とは、不動明王を筆頭に、降三世(ごうざんぜ)明王、軍荼利(ぐんだり)明王、大威徳(だいいとく)明王、金剛夜叉(こんごうやしゃ)明王を指し、密教や修験道の最高神とされています。

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京都の古い家ではいろんな災厄を免れるため、「蘇民将来之子孫也」、「五大力」、「火廼要慎」、「赤山大明神御札」などのお札を貼りますが、「五大力」は積善院や醍醐寺の五大堂などで授かります。「拝殿」

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「積善院」は鎌倉時代の1200年頃に聖護院の別院として現在の熊野神社の北西に創建され、本山を補佐して諸法務をおこなう院家(いんげ)でした。「寺務所・授与所」

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一方「準提堂」は江戸時代に熊野神社の南東に創建された聖護院の塔頭寺院です。 下のGoogleMapで現在の積善院準提堂は右上、熊野神社は中央下にあります。

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明治初年の神仏分離令により寺院の統廃合が進められ、積善院と準提堂が合併して、大正3年にその建物を積善院境内に移転しました。積善院凖提堂とも呼ばれるのはそのためです。「本堂」

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本堂はかっての準提堂で、その本尊・準提観音像と積善院の本尊だった不動明王像をあわせて祀っています。準提観音像は光格天皇の勅願といわれています。

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本堂の左奥にパワースポットとされる場所がありますが、後で訪れます。

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本堂の左手の「行者堂」はかっての積善院本堂で。役(えん)の行者像と阿弥陀如来像などを祀っています。役の行者(634-701)は奈良時代の山岳修行者で修験道の宗祖です。

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役の優婆塞(うばそく)、役の小角(しょうかく・おづの)とも呼ばれます。また、遠忌(没後)1100年を迎えるにあたって、光格天皇から神変大菩薩の諡(神号)が贈られました

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本堂と行者堂の間のパワースポットには大勢の観光客が集まっています。

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お目当ては左奥にあるのですが、その前に下の写真の左にある石碑を紹介します。

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「お俊伝兵衛恋情塚」 江戸時代中期の1738年釜座三条の呉服商・井筒屋伝兵衛(23歳)と、先斗町近江屋金七の抱え遊女・お俊(20歳)が恋仲となり、添えないために聖護院の森で心中した事件がありました。

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この事件は、近松門左衛門の人形浄瑠璃「近頃河原達引」の題材となり、1952年に義太夫の豊竹山城少椽らよってこの塚が立てられました。そこには、「やつす姿の女夫連れ名を絵草紙に聖護院森をあてどにたどり行く」とあります。

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中央の祠は地蔵尊と思われ、その右に貼ってある貼り紙には「お地蔵様に前掛けを…」と書いてあります。地蔵菩薩は子どもを守る神様とされ、子供の成育や安全を祈って前掛けを奉納する習わしがあります。祠の右には前掛けをした石仏がいます。

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左の台座に「崇徳院地蔵」が安置されています。平安末期の1156年に皇位継承をめぐって「保元の乱」が起き、敗れた崇徳上皇は讃岐に流され憤死してしまいました。

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崇徳は5歳にして即位しましたが実権がなく、自分の子供が即位することを願って退位しました。しかし、願いはかなわず(自分の)弟の後白河が即位してしまいました。

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崇徳上皇の屋敷「白川北殿」に支援する武士たちが集まっているところを、挙兵したとみなされ後白河天皇と平清盛らに急襲されてあっというまに勝敗が決してしまいました。下は平安京オーバーレイマップで、左下が白川北殿です。

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上の地図で赤で描かれた部分が平安時代の遺跡で、先日二条通の記事で紹介した白川街区の北にあたります。捕らえられた崇徳上皇は断食して身の潔白を訴えましたが、配流先に向かう途中で憤死してしまいました。

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その後都では大火、疫病、大地震などの災厄が続き、平清盛も急死して、崇徳上皇の怨霊の祟りだとされました。その霊を慰めるため、人々は崇徳の屋敷があった鴨川東の「聖護院の森」に粟田宮という神社を建て、そこに「崇徳天皇廟」を造りました。

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その後、長い年月を経て粟田宮は廃絶して地蔵尊だけが残りました。その地蔵尊は、いつしか「すとくいん 」が「ひとくい」となまり、「人喰い地蔵」の名で呼ばれるようになりました。

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下は明治に作製された古地図で東大路や丸太町通、京大病院はまだなく、東西に平安京の中御門大路末にあたる春日北通が通っています。中央下に熊野神社、右上に聖護院があります。粟田宮は熊野神社の北西にあり、現在は京大病院の敷地です。

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最後の写真は春日北通で、通りの西にあった白川北院で保元の乱が起き、北に崇徳天皇廟が造られ、残された崇徳院地蔵は東にあるこの寺に移されました。崇徳院上皇にいわくのある通りです。

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コメント

パワースポットには、あまり近づかない方がいいのかもしれませんね。
何かに憑りつかれてしまいそうです。特に夕暮れは・・・。

投稿: munixyu | 2024年2月 7日 (水) 16:10

こんばんは。ゆーしょーです。
11枚目の石灯篭の中に
小さな狛犬のようなのが
鎮座していますね。
こういう灯篭初めて見ました。
ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2024年2月 8日 (木) 00:36

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