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2024年2月20日 (火)

興正寺 その歴史と紅白の梅

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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昨日の記事の西本願寺・飛雲閣を出て、隣にある興正寺に向かいました。西本願寺と同じブロックにあって、堀川通を南に歩くとすぐに門があります。

「阿弥陀堂門」 明治45年(1912)の宗祖650回大遠忌を期して再建、阿弥陀堂の正面に位置する興正寺の正門です。四脚門の格調高い様式となっており、門扉には牡丹唐草、柱には龍の彫刻が施されています。

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「三門」 阿弥陀堂門と同年に建立され、御影堂の前に位置する二階建ての楼門(三解脱門)です。三つに仕切られた入り口があり、門扉には牡丹唐草に抱牡丹紋の彫刻が施されています。

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西本願寺に隣接している興正寺は、その歴史も西本願寺と密接に関わってきました。鎌倉時代、法然に師事して専修念仏に帰依した親鸞は、承元元年(1205)念仏教団への禁圧によって越後に流罪となります(承元の法難)。

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親鸞は建暦元年(1211)に赦免され、その翌年越後から京都に帰り山科に一堂を創建しました。(紅梅は満開に近い状態でした。)

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順徳天皇(1210-1221)の勅願によって、この寺は「興隆正法寺」後に「興正寺」と名づけられました。この名は、聖徳太子がめざした「興隆正法」(正しい法を興し栄えさす)という意味があるのだそうです。「興正派宗務所」  

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元応2年(1320)興正寺第7世了源上人は寺を洛東の汁谷(しぶたに)に移しました。その頃 本尊が光明を放ったといわれたことから、後醍醐天皇から「阿弥陀仏光寺」の名前を賜り、一つの寺で二つの名前を用いることになりました。

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「経蔵」 江戸時代後期の嘉永元年(1848)建立、初層は唐破風付白壁土蔵造、二層は唐破風付楼造、屋根は宝形造です。中には経・律・論のすべてを収録した一切経が収められています。 建立当初の位置が唯一変わっていない貴重な建築物です。

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その後の文明13年(1481)第14世蓮教上人(経豪)は興正寺を山科西野に再興して、仏光寺は弟・教誉上人が継ぎました。これによって、二つの寺名がそれぞれの別の寺に分かれました。境内の北に蔵があります。

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蓮教上人は当時山科にあった本願寺の蓮如上人と協力して念仏を広めることに奔走しました。ところが、戦国時代の天文元年(1532)六角氏と法華宗徒の焼き討ちにより、興正寺は山科本願寺とともに焼失してしまいました。阿弥陀堂と御影堂

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「阿弥陀堂(あみだどう)」明治35年(1902)それまでの本堂であった「ひとつ御堂」が焼失しました。現在の本堂は明治45年(1912)の宗祖650回大遠忌を経て、大正4年(1915)に再建されたものです。本瓦葺二重入母屋造の興正寺の本堂です。

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安土桃山時代(1585年)第15世蓮秀上人は、本願寺とともに大阪天満に移転し、無事だったご真影を祀って天満興正寺を開きました。 永禄11年(1568)本願寺が門跡寺院となったときは、末寺別格として興正寺も脇門跡寺院となり、本願寺に次ぐ位置を占めました。

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阿弥陀堂の中央には本尊の阿弥陀如来の木像を祀っています。左右にはインド、中国、日本の七高僧と聖徳太子の影像を安置しています。

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天正19年(1591)第17世顕尊上人のとき、豊臣秀吉により本願寺とともに京都の現在地に戻り、慶長7年(1602)の本願寺の東西分裂では西本願寺に属しました。(渡り廊下を御影堂に向かいます。)

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江戸時代を通じて興正寺は西本願寺の末寺でしたが、本山として独立しようとする気運も根強くあり、本末紛争も起こりました。明治9年(1876)第27世本寂上人(1808-77)の時にようやく本願寺から一派本山として独立しました。

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しかし、明治35年(1902)の火災により、日光の本廟、知恩院の三門とともに日本三建築の一つといわれた興正寺本堂など大伽藍のほとんどが焼失してしまいました。

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御影堂(ごえいどう)は 焼失した本堂の再建に際し、両堂様式の御影堂が懇望され、新たに本瓦葺入母屋造の御影堂が建立されることになりました。10年の歳月をかけ、明治45年(1912)の宗祖650回大遠忌を期して完成しました。 

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堂内中央には聖人40歳の姿を刻したものと「親鸞聖人御真影」、左右には興正寺御歴代の御影、九字名号、十字名号を安置しています。 

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御影堂の外縁からは昨日の飛雲閣が見えます。特別拝観では見ることができなかった建物の南側です。

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再び境内に下ります。

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「鐘楼」安永3年(1774)建立、本瓦葺入母屋造の袴腰楼造の鐘楼で、直径約1mの梵鐘があります。同年の桃園天皇13回忌に際し、皇太后恭礼門院(一条富子)が寄進。経蔵とともに明治35年の火災を免れました。

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平成30年(2018)の大阪北部地震と台風21号で興聖寺は大きな被害を受けました。阿弥陀堂や表対面所(御影堂の裏にあります)などの伽藍の中で、明治45年に完成した御影堂が一番損傷しました。

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以前に訪れたときには修復工事中で御影堂に上がれず、親鸞聖人像は阿弥陀堂に移されていました。 昨年ようやく修復工事が完了、畳が新しくなり、屋根裏に(修復工事の概要を示す)棟札を修めたそうです。  

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親鸞聖人が開いた浄土真宗は、様々な歴史的な事情から現在では、本願寺派、大谷派、興正派など十派に分かれています。しかし、共通の課題については「真宗教団連合」をつくって一緒に行動をしています。

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例えば、被災地支援活動として東日本大震災被災地の支援活動に対する助成や復興イベント、昨年は福島県の親子を対象とした助成を行ったそうです。この後、阿弥陀堂門から出て、興正寺と西本願寺の間にある「北小路門」に向かいました。

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コメント

梅の花を見ると、まだ2月ですが、
何となく春を感じますよね。
条件反射なのかもしれませんが、不思議なことです。

投稿: munixyu | 2024年2月20日 (火) 16:43

こんばんは。ゆーしょーです。
白梅と紅梅がとてもきれいですね。
これを見てひな人形の左近の桜・
右近の橘を思い出しました。
ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2024年2月21日 (水) 03:19

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