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2024年2月12日 (月)

相国寺の境内を歩く 西部

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事の慈雲院の山門を出ると、右手(西)に「慈照院」があります。応永12年(1405)頃、相国寺第13世・在中禅師の創建で、始め大徳院と称し、延徳2年(1490)第8代将軍足利義政の菩提所となり、慈照院と改号されました。

皇室とも深い関わりがあり、第7世仏性本源国師が桂宮智仁親王や智忠親王と親交があり桂宮家の菩提所となりました。先日の宗旦狐の伝説で知られる 茶室「頤神室」があります。 

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「桂宮東ノ墓地」 智仁親王(正親町天皇皇孫)、常照院(智仁親王妃)、智忠親王(正親町天皇皇曾孫)、穏仁親王(後水尾天皇皇子)、長仁親王(後西天皇皇子)、尚仁親王(後西天皇皇子)、作宮(霊元天皇皇子)の墓があります。

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「桂宮西ノ墓地」 文仁親王(霊元天皇皇子)、家仁親王(霊元天皇皇孫)、基子(家仁親王妃)、公仁親王(霊元天皇皇曾孫)、室子女王(公仁親王妃)、寿子(公仁親王妃)、盛仁親王(光格天皇皇子、桂宮初代)、節仁親王(仁孝天皇皇子、桂宮2代)の墓があります。

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二つの墓地(宮内庁管轄)は慈照院への参道の両側にあり、同院が管理をしているそうです。下は相国寺の境内図(西部)で、慈照院は中央上にあります。

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相国寺の境内に戻る途中にある「般若院」、かって相国寺の学寮で松林の名所でもありました。1984年から2020年まで、演劇塾「長田(おさだ)塾」の本拠として使われ「町かどの藝能」が行われていました。

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江戸時代中期の京都には、芸でお客を楽しませた後に商いをする芸商人たちがいました。その商人たちの芸を再現したのが、観客完全参加の「町かどの藝能」だそうです。現在は上京区下清蔵口町に本拠を移して活動しています。

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毎年の春・秋の公演中は、般若林の広大な境内がまるで江戸時代にタイムスリップしたようで、あちこちで玉すだれ、あほだら経、あやつり人形、けん玉などの大道芸が行われ、お店もあって一日楽しめたそうです。相国寺の「北門」

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「大光明寺」は山号を梵王山(ぼんおうざん)という禅宗寺院で「大光明寺禅寺」とも称されました。伏見宮家歴代の菩提寺で、かつて伏見殿傍らに建てられて離宮の役割も果たしました。

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当初は伏見桃山にあり伏見宮家歴代の菩提寺となりました。応仁の乱によって荒廃。その後豊臣秀吉の手により復興し、慶長19年(1614)に徳川家康によって現在地に移され、相国寺塔頭として再興されました。

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「豊光寺」 慶長3年(1598)豊臣秀吉が死去し、翌年相国寺第92世西笑承兌(せいしょうじょうたい)が秀吉の追善のため創建した塔頭です。西笑和尚は天正12年(1584)相国寺に入寺し、

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豊臣秀吉および徳川家康のブレーンとして、諸法度、外交文書起草、学問奨励策、寺社行政などに関わった僧侶です。 天明の大火(1788)で焼失・廃絶しましたが、明治15年(1882)に再建されました。(通用門から)

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「長得院」 室町時代の応永年間(1394-1428)中頃、鄂隠慧巖(がくいんえかつ、仏慧正続,国師〉によって創建され、当初は大幢院(だいどういん)と呼ばれました。

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応永32年(1425)年に5代将軍・足利義量(よしかず)が亡くなるとその菩提寺となり、その法号にちなんで長得院と改められました。 天明の大火で焼失、その後の文政3年(1820)から天保5年(1834)の間に再建されました。

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浴室「宣明(せんみょう)」 1400年頃創建されたとみられ、現在のものは慶長初年(1596)に再建され、平成14年に復元修復されました。禅宗では、日常の立ち居振る舞いすべてが修行で、浴室は「心」と「体」の垢を落とす重要な修行の場だそうです。

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この先には相国寺の墓地があり。藤原定家、藤原頼長、足利義政、伊藤若冲などが葬られています。中央の看板には自動車の乗り入れと関係者以外の立入はご遠慮くださいと書いてあります。

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「天響楼(てんきょうろう)」は平成22年の建立。相国寺の名の由来でもある中国開封にある大相国寺が梵鐘を二つ鋳造し、その一つが日中仏法興隆、両寺友好の記念として寄進されました。「友好紀念鐘」の銘や「般若心経」の経文が記されています。

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鎮守「八幡宮」 創立当時は今出川通りの北にあって、今の御所八幡町はその旧跡といいます。足利義満が男山八幡からご神体を奉迎した時は男山八幡から当寺までの沿道ことごとくに白布を敷きつめたといわれています。

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「後水尾帝歯髪塚」 後水尾上皇は、江戸時代前期の承応2年(1653)に、焼失した大塔を再建し、その際、出家落髪の時の髪と歯を上層柱心に納めました。しかし、天明の大火(1788)で焼失し、その跡地に歯髪塚が建てられました。

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後水尾天皇は禁中並公家諸法度など朝廷権威がはく奪される苦しい時代に幕府に知らせず譲位、修学院離宮の造営など自由に生き抜き、85歳で没しました。墓は泉涌寺内の月輪陵にあります。昭和天皇や現上皇に次いで長寿だったそうです。

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「経蔵」 宝塔が天明の大火によって焼失、万延元年(1860)に宝塔が再建され経蔵を兼ねていました。その後、仏舎利が他の堂宇に移され、現在は経蔵としてのみ使用され、高麗版一切経が納められています。平成19年に京都府指定有形文化財。

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「養源院 」 開祖・曇仲道芳(どんちゅうどうぼう、1367-1409)は詩文に優れ、将軍・足利義満・義持父子に寵愛を受けました。ところが自ら出世を望まず、終生黒衣で通して相国寺の常徳院内の禅室「養源軒」に隠棲しだといいます。

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曇仲が亡くなると、百万遍にある長生軒に葬られ、後に門人らは常徳院内の旧隠居所にならって養源院と改名。本堂には本尊・薬師如来と鎌倉時代の慶派仏師の作と伝わる高さ約170cmの秘仏「毘沙門天像(多聞天像)」を祀っています。

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「普廣院」應永7年(1400)相国寺第9世・性眞圓智禪師觀中が相国寺に入寺し、同年足利3代将軍義満は乾徳院を創立して師の性眞禪師の塔所(隠居所)としました。

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嘉吉元年(1441)6代将軍義教は当院を影堂(菩提寺)と定め普廣院に改号しました。天明の大火(1788)で焼失、嘉永元年(1848)ようやく鹿苑院跡とされる現在地に再建されました。

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「鹿苑院」は3代将軍足利義満が建立した中心的な塔頭ですが詳しい場所は分かっていませんでした。2010年に同志社大今出川キャンパスで、建物跡とともに足利家の家紋「桐紋」が入った瓦も出土、鹿苑院の遺構が発見されました。

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コメント

後水尾天皇85歳は長寿ですね。
今で考えても長いのではないでしょうか。
長寿の秘訣は何だったのでしょう。
何となく気になってしまいます。

投稿: munixyu | 2024年2月12日 (月) 14:05

こんばんは。ゆーしょーです。
今日は相国寺の西部ですね。
前々回は相国寺の東部でした。
東部の時も書きましたが、
相国寺の境内はめちゃくちゃ
広いですね。
ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2024年2月13日 (火) 00:06

★munixyuさん こんばんは♪
自由奔放な性格だったのは確かなようです。

投稿: りせ | 2024年2月16日 (金) 01:51

★ゆーしょーさん こんばんは♪
西部と南部には同志社大学がありますが、ここもかっては相国寺の境内でした。、

投稿: りせ | 2024年2月16日 (金) 01:56

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