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2023年12月 8日 (金)

熊野若王子神社 国宝・薬師如来と若王子観音

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日哲学の道を歩いた後、若王子熊野神社に立ち寄りました。今日はかって神社にあった二つの仏像の行方を紹介します。

「熊野若王子神社」は、平安時代末期の永暦元年(1160)後白河上皇が紀州熊野権現を勧請して禅林寺(永観堂)の守護神とした「若王子」が始まりとされます。石橋は、江戸時代の1656年に吉良家から寄進されたといわれています。

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橋の手前に句碑「花乃影澄や岩間の和すれ水」、作者は江戸時代の俳人・堤梅通(1797-1864)で、京都に生ま、通称を俵屋六兵衛、麦慰舎花の木と号しました。編著に『舎利風語』などがあります。

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石橋の右手にあった京都で最も古い梛の大木は、困難を「なぎ倒す」としてご神木として仰がれていました。しかし、平成29年9月の台風18号の被害にあい、倒木の恐れがあったため2m50cmを残して伐採されてしまいました。

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神社の社名は天照大神の別称「若一王子」にちなみ、もとは永観堂の近くにあったそうです。かって京都から熊野詣に出かけるときに、まず一番先に熊野若王子神社に立ち寄るのが習わしだったそうです。

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そして、新熊野神社で最初の休憩をとり、その後伏見から淀川を船で下り、大阪から陸路で紀伊路に向かいました。平安時代から鎌倉時代初めまでに、法皇・上皇による熊野詣は100回以上にのぼり、そのなかでも後白河法皇の34回が一番多かったそうです。

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鎌倉時代には源頼朝、室町時代には足利尊氏や義満らが熊野若王子神社に帰依して寄進が続きました。また、花見の名所でもあり、足利尊氏、義政らが花見の宴を催したという記録があります。

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応仁・文明の乱(1467-1477)で社殿は荒廃しましたが、安土・桃山時代になると豊臣秀吉の寄進によって、若王寺僧正澄存が再興したといわれています。

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江戸時代には聖護院門跡院家となり、「正東山若王子乗々院」と呼ばれ寺領75石を得ています。院家とは大寺院を補佐してその法務を行う別院です。この頃、熊野詣に出かける人々やそのための具足商人の信仰を集めました。

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本殿には、国常立神(くにとこたちのみこと)、伊佐那岐神(いざなぎのみこと)、伊佐那美神(いざなみのみこと)、天照大神を祀り、学業成就、安全祈願、縁結びのご利益があるとされています。

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本殿の左には末社の「恵比須社」があり、かつて夷川通にあった「夷川恵比須社」を遷したものです。

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「恵比須神像」 木造寄木造りの等身大の坐像で、室町時代の作とされ、開運商売繁盛の神です。

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恵比須社の向かいに歌碑「名に高き滝の白糸さればこそ花のにしきをおりいだしけれ」 江戸時代後期の公卿で歌人の千種有功(ありこと、1797-1854)の作で、鶯蛙園と号し、歌集に『和漢草(わかくさ)』などがあります。

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明治初年(1868)神仏分離令とともに修験道廃止令が布告され、さらに神社合祀令も出されました。これにより、仏教や熊野神社などの修験道だけでなく、多くの自然信仰の神社が廃止されました。

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このとき、若王子乗々院は神社だけが残り聖護院より離れました。地仏堂に安置されていた薬師如来坐像は、神官の所有となり、さらに3人の手を経て国有となりました。本殿の前に地仏堂の屋根にあった宝珠が置かれています(上の写真)。

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現在、薬師如来坐像は奈良国立博物館に保存されています。そして、国立博物館(東京、京都、奈良、九州)が所蔵する仏像彫刻のなかで、唯一の国宝に指定されました。写真は文化庁の「文化財オンライン」から。

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奈良国立博物館の所蔵品のなかでも貴重で人気もあり、同館の図録の表紙にも載っています。両手首先と螺髪(らほつ)を除き、台座の蓮肉部(れんにくぶ)まで含む大半をカヤと思われる一材から彫成して、内側を刳り抜いていません。

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このような構造は、奈良時代後期から平安時代初期の彫像の特色だそうです。さらに、本像の容貌には独特の異国的な雰囲気があります。はれぼったい瞼や、瞳の大きい切れ長の眼は、遥かインドの仏像の表情を思い起こさせます。

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一方、この神社は熊野信仰だけでなく観音信仰の聖地でもあり、「若王子観音」とも呼ばれていました。かって俳優・栗塚旭が経営していた喫茶店への降り口の近くに石標がありました(現在は見当たりません)。

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若王子観音は観音霊場の洛東三十三所第一番として信仰を集めていました。この観音霊場は明治の混乱で廃絶して、現在知られている札所は数か所しかありません。三条寺町の「矢田寺」

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私が調べたところ、このとき観音菩薩像や鰐口、碑が矢田寺へ移されたという記録がありました。矢田寺を訪れると「しあわせ大日如来」前の石柱に「東山若王子」と刻んであります。上の部分がありませんが、正東山若王子のことだと思われます。

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こちら側には「所第一番」とあり、洛東三十三所第一番が削られたものと思われます。矢田寺と若王子神社ともに、若王子観音が遷された記録があることをご存知ありませんでした。

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おそらく、混乱の中で若王子観音はさらに他の人の手に渡ったものと思われます。二つの仏像の対称的な行方に、明治初期の混乱した時代を思い起こしました。このあと永観堂に向かいました。

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コメント

京都で最も古い梛の大木は残念でしたよね。
ご神木といえど、木なので仕方ないことですが。
伐採する人も悲しかったでしょうね。

投稿: munixyu | 2023年12月 8日 (金) 15:06

こんばんは。ゆーしょーです。
熊野若王子神社・・・名前は以前から聞いていました。
紀州の熊野と関係あるのかな?と思ってましたら
やはり関係あるのですね。
ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2023年12月 9日 (土) 00:38

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