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2023年10月 2日 (月)

三条大橋 その歴史と史跡めぐり

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

先日、壇王法林寺を訪れたあと三条大橋周辺を散策しました。ここでは時代によって様々な出来事や事件が起こり、その跡をたどりながら三条大橋の歴史をたどります(写真は必ずしも歴史の順番ではありません)。

京阪電車の三条駅はこの付近の開発に大きく寄与して、単に「京阪三条」といえば三条大橋東詰の地域を指します。

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京阪三条にある「高山彦九郎像」、先日、江戸時代の人物の銅像として紹介しましたが、彼は各地を遊歴して勤皇論を説き、三条に足を運ぶ度に御所の方角に向かって膝をついて拝礼をしたといわれています。

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最初に三条に橋が架けられた時期は室町時代といわれています。天正17年(1589)豊臣秀吉の命により五条大橋と共に増田長盛を奉行として石柱の橋に改修されました。

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江戸時代には五街道のひとつ東海道五十三次の西の起点となりました。そのため幕府直轄の公儀橋に位置付けられました。その後、元禄、明治、大正の各時代に橋の架け替えが行われました。上は歌川広重筆『東海道五十三次 三条大橋』。

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「駅伝の碑」大正6年4月27-29日の3日間にわた「東海道駅伝徒歩競走」が開催されました。三条大橋から東京・上野不忍池の博覧会正面玄関までの508㎞を23区間に分けて競ったのが、駅伝の始まりです。同じ碑が東京にもあるそうです。

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現在の橋本体は昭和25年(1950)4月に完成した鋼単純H型橋で石橋ではありません。橋長73m、幅員16.7mで木製欄干は2度更新されています。現在も工事が行われていますが、説明は後ほど。

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橋の上から上流、向うに見えるのは「御池大橋」、その奥は北山。広い河川敷は、昭和10年(1935)の大洪水の後に治水対策として高水敷が整えられ、緑地化して公園となっています。

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右岸(西)には納涼床が設けられています。納涼床は一級河川の河川敷に施設を設置するので、毎年、京都府土木事務所の許可が必要です。今年はコロナの外出自粛が解除されて昔の風景が戻ってきました。

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西詰北側の広場は「高札場」で、幕府が定めた「法度」や「掟書」を木の板に書いて高く掲げた場所です。東海道の終点で人々のたまり場だったので、目につきやすい場所です。ここでは、幕末に「三条高札事件」が起こりました。

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慶応2年(1866)9月12日、江戸幕府の制札を引き抜こうとした土佐藩士の一団が、警戒にあたっていた新選組と乱闘となり、土佐側の一名が斬殺、一名が捕縛されました。かっての石造りの橋脚が展示されています。

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西詰から2番目の擬宝珠に、池田屋事件で付いたとされる刀傷の跡があります。元治元年(1864)6月、三条小橋の旅籠池田屋に集まった尊攘派を、近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助ら新選組が襲撃し、多数の死傷者と逮捕者を出した事件です。

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幕末史に残るこの騒動によって新選組の名が世間に広まることとなりました。池田屋は三条大橋の西にあり、最近その跡に旅館が建っています。上は南側で、北側にも西から二本目の擬宝珠に刀傷があります。

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西詰の南側に来ました。擬宝珠の刀傷あとの説明板の左に、三条小橋商店街の看板があります。ここにある枝垂れ桜は賑わい創出事業の一環だそうです。右は同商店街の町掟で、上の高札場にならっています。

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こちらも先日紹介した「弥次喜多像」、十返舎一九の東海道中膝栗毛で珍道中をする二人が銅像となっています。この銅像は平成6年(1994)三条小橋商店街が建立したもので、彫刻家の小山由寿の作です。

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その横に地蔵尊を祀る祠があります。かって三条大橋の下には地蔵尊が捨てられていて、鴨川を管理する京都府土木事務所が処理に困って「この物件の所有者は速やかに撤去...」という広告を出して、その表現が批判されたことがありました。

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幸い前にある「瑞泉寺」(下はその裏門)が引き取ることになりました。上の祠の地蔵尊も同様だと思われ、祠の下には「宗教法人阿字大霊宗」の奉納と刻んであります。同法人は昭和12年山科に生まれた高嶋泰象氏が創始しました。

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河川敷に下りる橋、手前はみささぎ川。この橋はかっての「車道」の跡です。かっての橋は牛が引く荷物の通行が許されず、川の中を渡りました。そのため、橋の近くに荷車が通行する道があり、同様の車道の跡が荒神橋にもあります。

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「珉珉 三条大橋店」 昭和28年(1953)大阪千日前に1号店(本店)をオープン、京都には四条、祇園、桃山にも直営店があります。ギョウザで有名ですが、他の中華料理も美味しいと評判で、定食やランチもあります。

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三条大橋の近隣の川岸はかつて「三条河原」と呼ばれ、処刑や処刑後の晒し首が行われました。ここで処刑や晒し首にされた人物には、盗賊の石川五右衛門、1600年の関ヶ原の戦いに敗れた石田三成(六条河原で処刑、三条河原で晒し首)。

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新撰組局長「近藤勇」慶応4年(1868)板橋で処刑されたあと、首が塩漬けにして運ばれ三条河原で晒し首となりました。(石の椅子には、何故かロックバンドのMAN WITH A MISSIONのステッカーが)。

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幕末には祇園の芸妓「たか女」が三条河原で晒し者になりました。彼女は井伊直弼の愛人で京都の反幕府勢力の情報を江戸に送るスパイとなり、1860年の桜田門外の変で直弼が暗殺され、翌年長州と土佐藩士は報復のためにたかを尼姿で晒しました。

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3日後、たかは宝鏡寺の尼僧に助けられ、清凉寺、圓光寺を経て、一乗寺にある金福寺の尼となりました。晩年は金福寺で直弼らの菩提を弔いながら過ごしました。下は山門の脇ににたかが建てた弁天堂。

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三条大橋は様々な歴史の舞台となりましたが、木製の欄干などは傷みが激しく最後の更新後約40年が経過して「三条大橋の補修・修景」が必要となっていました。そこで、財政難の京都市はふるさと納税寄付金を募りました。

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京都市出身だけでなく、学生時代を京都市で過ごしたり、観光で京都を訪れたことのある方などからの寄付が目標額を越えて集まり、現在平成5年3月をめどに工事が行われています。

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最後は鴨川の水位を監視する京都府土木事務所ライブカメラで、クリックをすると現在の三条大橋が見えます(写真は1分毎に更新します)。

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コメント

こんばんは。ゆーしょーです。
三条大橋ですね。
昔は川の左岸に沿って京阪電車が走ってましたが、
いつの間にか地下へもぐりこんで景色が変わってしまいました。
三条大橋と言えば小6の修学旅行の時に泊まった日昇館ですね。
今、思い出したら日昇館へは二度泊まっています。
二度目は昭和40年頃、勤務していた会社の慰安旅行の時です。
従業員250人の会社でした。
日昇館に250人も宿泊出来ないので、二つの宿に分けて
男性は日昇館、女性はいろは旅館でした。
いろは旅館は三条大橋のほん近くにあったように思うのですが、
老舗のいろは旅館、今はなくなっているそうですね。
ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2023年10月 3日 (火) 00:36

★ゆーしょーさん こんばんは♪
いろは旅館は2015年に廃業、建物も取り壊されました。その跡地に外資系のホテル「ダーワ・悠洛 京都」が開業しました。この日の散策の最後に三条通りを川端から東大路まで歩いて、そのホテルも撮影しました(いつ記事にできるかはまだ分かりませんが)。

投稿: りせ | 2023年10月 3日 (火) 03:05

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