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2023年9月13日 (水)

天下人の肖像彫刻をめぐる

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

今日は、幕府を開いた初代将軍や戦国時代の覇者、織田信長と豊臣秀吉の肖像彫刻を紹介します。肖像画は各地の寺社に多数残っていますが、彫刻像は多くありません。上は知恩院の「三門」(最後の写真も)。

「知恩院」は浄土宗総本山で、慶長8年(1603)に家康の生母・於大の方の永代菩提寺に定められて以降、将軍家の庇護を受けててきました。法然上人の御影(みえい)を祀る「御影堂」は3代将軍家光が創建、家康と2代将軍秀忠の坐像を安置しています。

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秀忠像は元和6年(1620)に本人が運慶の流れを汲む七条仏師・康猶(こうゆう)に命じて作らせたことがわかっており、家康像も康猶作と考えられています。2体の像は2014年に近世肖像彫刻の優品として重要文化財に指定されました。「家康像」

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小方丈の北東に「権現様影堂」があり、浄土宗と知恩院を庇護して、その繁栄の礎を築いた徳川家康、秀忠、家光の三代の霊を祀っています。現在の建物は昭和49年の浄土開宗800年を記念して再建されたものです。

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「豊国(とよくに)神社」は、豊臣秀吉を祀る神社です。天下人となった豊臣秀吉は、2度目の朝鮮出兵中の1598年8月18日に伏見城で死去しました。4月17日方広寺の鎮守社と定められた豊国社に「豊国大明神」の神号が宣下されました。

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葬儀には徳川家康、毛利輝元も参詣しましたが、1615年に大坂夏の陣で豊臣家が滅亡すると事態は一変、家康の命により豊国廟と豊国社は破却されました。明治になり明治天皇の意向により、この地に(方広寺大仏殿旧地)に豊国神社が創建されました。

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唐門前にある陶製の「豊臣秀吉像」 太平洋戦争中に制作され、阪神淡路大震災で壊れた台座を取り換えて最近公開されました。他に、秀吉の正室・ねねを祀る高台寺・霊屋(おたまや)にも秀吉像がありますが公開されていません。

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1890年秀吉配下の子孫らによって豊国会が結成され、秀吉の墓がある阿弥陀ヶ峰山頂への参道入口に豊国廟が再建されました。山頂の秀吉の墓には伊東忠太設計の10mの巨大な石造五輪塔が建てられました。

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本能寺の変(天正10年6月2日)で織田信長が没したあと、6月13日豊臣秀吉は山崎の戦いで明智光秀を討ちます。秀吉は10月11日から7日間に渡って大徳寺において信長の大葬礼を行いました。

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信長の遺体がないため、運慶、快慶の流れをくむ仏師・康清に等身大の信長像を造らせ、本能寺の灰とともに荼毘に付しました。香木の沈香で造られていたので、その香りが都中に漂ったといわれます。「本堂」

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信長の一周忌に秀吉は、大徳寺117世の古渓宗陳を開祖として「総見院」を創建。寺名は、信長の戒名からとりました。さらに、衣冠帯刀の織田信長木像(重文)も祀りました。荼毘に付された木像と同じく康清の作です。

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信長が亡くなった直後に秀吉が造らせたもので、他の肖像画と特徴が一致し最も信長に似ていると考えられています。また、眼力が鋭く信長の最晩年の面影を表しているともいいます。

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最近では寺町にある「阿弥陀寺」が信長の墓所であると考える歴史学者が増えています。寺伝によると、当時の住職・清玉上人が本能寺に駆け付けると、薮の中で武士たちが信長の遺骸を火葬しようとしているところに出会います。

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上人は火葬は出家の役だとして、遺骨を火葬して寺に持ち帰り密かに葬りました。秀吉は信長の遺骨があることを知っていたようで、当初阿弥陀寺で葬儀をするとして、莫大な葬儀寮など300石を差し出すも、既に葬儀は住んでいると断られたそうです。

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当時の記録は度重なる火災によって失われてしまいましたが、最近、幼いころから信長と清玉上人が兄弟同然の間柄だったことが分かり、寺に伝わる伝承が事実である信ぴょう性が高まったといわれています。信長・信忠の墓碑。

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室町時代初めの暦応2年(1339)、室町幕府初代将軍・足利尊氏は、洛中にあった館の近くに、菩提寺として「等持寺」を建立しました。さらに、暦応4年(1341)夢窓国師を開山として等持寺の別院(北等持寺)を創建しました。

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このとき北等持寺は禅宗に改宗され尊氏の死後「等持院」と改められました。等持寺は応仁の乱で衰退して等持院に合併されました。方丈と廻廊で繋がる「霊光殿」には尊氏の念持仏・利運地蔵尊が正面に、左右に達磨大師と夢窓国師が祀られています。

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霊光殿の両側の壁の前には、足利歴代の将軍像と家康の像が安置されています。家康の像は42才の厄除けの霊験を受けたもので、石清水八幡宮に祀られていた像が、明治の廃仏毀釈によって等持院に遷されました。下は「初代足利尊氏公木像」。

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等持院の池泉回遊式庭園の霊光殿の裏手に足利尊氏の墓と伝えられている室町時代の宝筐印塔があります。

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源頼朝は弟の源範頼・源義経を派遣して平氏追討に当たらせ、1185年壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡させました。同年、無断で官位を得るなどした源義経・源行家が頼朝と追討する院宣を後白河法皇から獲得、守護・地頭の任免権を承認させました。「神護寺の金堂」

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これにより頼朝は全国の軍事権・警察権を掌握したため1885年をもって幕府成立とする説が有力とされています。頼朝は、義経と比べて京都に関係が薄く、その肖像彫刻はありませんでした。唯一信長の肖像画が「神護寺三像」(国宝)として残っています。

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この三像とは源頼朝(下図)、平重盛、藤原光能の肖像画で、絹本著色、掛幅装。人物はほぼ等身大に描かれています。作者は藤原隆信と伝えられ、頼朝像と重盛像は京都国立博物館、光能像は東京国立博物館にそれぞれ寄託されています。

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東京国立博物館には鎌倉鶴岡八幡宮に伝来した源頼朝座像も収蔵されています。鎌倉時代以後に流行した武士の俗体形の肖像彫刻の一例で、重要文化財に指定されています。

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昨年10月京都の仏師・江里康慧氏が約800年前に頼朝が手植えしたと伝わる頼朝杉を使って「源頼朝公像」を製作。ロームシアター京都で披露されました。神護寺が所有する頼朝像や上の鶴岡八幡宮の座像を参考にしたそうです。

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像が納まる厨子は截金師の江里朋子氏が担当、像と同じ頼朝杉が使われています。装束は京都の老舗装束店の黒田幸也氏が手がけています。今年中に源頼朝ゆかりの鶴岡八幡宮(下)に奉納する予定だそうです、

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コメント

信長の遺骨、やっぱりあるかもしれませんね。
焼いた骨のDNA鑑定はできないのでしょうか。
できた方がいいのか、できない方がいいのかは、なんともいえませんが・・・。

投稿: munixyu | 2023年9月13日 (水) 15:00

こんばんは。ゆーしょーです。
懐かしい知恩院三門です。
30年ほど前に父の納骨に、
15年ほど前に母の納骨に
行きました。
京阪四条で降りて歩きました。
ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2023年9月14日 (木) 01:30

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