平安時代の肖像彫刻をめぐる
過去の全記事 2006年1月27日から毎日更新しています。
京都に都が置かれた平安時代は、天皇や貴族を中心として王朝文化が栄え、後期になると武士が台頭してきた時代です。
京都御苑の西にある「護王神社」は、平安京の建都に貢献した和気清麻呂とその姉で戦乱で身寄りを亡くした多くの孤児達を養育した和気広虫(ひろむし)を祀っています。奈良時代の女性天皇・称徳天皇の時代、
権勢を振るっていた弓削道鏡は宇佐八幡から「自分を皇位につかせれば天下が太平になる」とご神託があったと主張、天皇からご神託が本当か確かめるように命を受けた清麻呂は道鏡の野望を退けます。
道鏡の怒りをかった清麻呂が大隅国(鹿児島県)に流される道中で刺客によって足を負傷、どこからともなく現れた猪の群れに助けられました。都に戻った清麻呂は794年平安京遷都を桓武天皇に上奏しました。
平安時代は大陸からもたらされた仏教が庶民にまで広がり、観音信仰も盛んとなった時代です。清水寺は奈良時代の778年、公家で武人であった坂上田村麻呂によって創建されました。平安遷都直後の延暦16年(797年)、
坂上田村麻呂は桓武天皇より征夷大将軍に任ぜられ。東北地方全般の行政を指揮する官職につきました。下は「京都市京セラ美術館」所蔵の「坂上田村麻呂像」、山崎朝雲 (1867-1954)により1934年製作されました。
「六道珍皇寺」 平安遷都前後の延暦年間(782-806)に空海の師・慶俊が創建した宝皇寺(愛宕寺)が前身だという説が有力です。平安時代前期の官僚・小野篁は、夜はあの世と行き来し閻魔大王に仕えたという伝承があります。
小野篁はあの世で閻魔大王から「精霊迎えの法」を授かり、この寺に閻魔堂を建て盂蘭盆会を行ったともいわれています。篁は身長が6尺2寸(180㎝)あり閻魔堂に祀られている像は実物大だそうです。
鞍馬街道沿いの市原野にある「補陀洛寺(ふだらくじ)」は通称、小町寺とよばれます。小野小町は平安時代前期の六歌仙の一人にあげられる歌人で、楊貴妃に例えられる絶世の美女として知られます。
しかし、年老いて容色も衰え、遠く陸奥路まで漂泊した末、昔父が住んでいた懐かしさから、ここ市原野の荒れ果てた生家を訪れて亡くなります。遺骸は葬う人も無く風雨に晒されと伝えられています。その後にこの地に建てられたのが補陀洛寺です。
「東北院」 平安時代中頃、藤原道長の没後にその娘・上東門院彰子の発願によって道長建立の法成寺(ほうじょうじ)の一郭に常行三昧堂が建立されたのが始まりです。現在は吉田山の東、真如堂の近くにあります。
「藤原道長像」 道真は三人の娘、彰子、妍子、威子をそれぞれ一条、三条、後一条天皇の中宮として、この世の春を謳歌しました。本堂には伝教大師作と伝わる本尊の大弁財天とともにこの像が安置されています。
藤原道真に庇護され、『源氏物語』を書いた「紫式部像」が宇治橋西詰にあります。紫式部は一条天皇の中宮・彰子に仕え、道長のお伴をしてその別荘がある宇治を訪れたと思われています。
千本通にある「引接寺」(千本ゑんま堂)は小野篁が仏教の根本道場として、自ら閻魔大王像を彫って納めた祠が始まりといわれます。源氏物語の愛好者は、紫式部が絵空事を書いて人々を惑わしたとして地獄に落とされたと信じ、
小野篁の力で救ってほしいと願い、この寺に紫式部の供養塔を遷したとされます。一方、下のブロンズ像は源氏物語千年紀を記念して、信者から寄進されたものです。
晴明神社は、平安時代中期の寛弘4年(1007)一条天皇の命により創建されました。晴明の偉業を讃えその霊を鎮めるため、晴明の屋敷跡である現在地に社殿が設けられました。
祭神の安倍晴明は、翌応和元年(961)陰陽師(官職、定員6名)に任じられ、天禄元年(970)陰陽少属に昇進、翌2年には51歳で天文博士の兼任が認めらました。占いや陰陽道の儀式を行い花山天皇や一条天皇、藤原道長の信頼を集めました。
保元・平治の乱で、崇徳上皇やそれに加勢する貴族や武士を破った平清盛は、仁安元年(1166)は広大な邸宅「西八条第」を造営、翌年に従一位に叙され、武士として初めて最高位・太政大臣に任ぜられ、初の武家政権が誕生しました。
「若一神社」は西八条第の跡地に建てられ、鳥居の内側に太政大臣の衣冠束帯姿の平清盛像があります(1990年建立)。神社の前の大楠は、太政大臣に任ぜられたのに感謝して手植したものとされます。
「法住寺」 平安時代後期、後白河天皇は平清盛に命じて、この地に院御所「法住寺殿」を建て院政を開始しました。後白河法皇は没後、法住寺殿の法華堂に葬られました。明治まで法住寺陵法華堂が後白河天皇陵を守る寺として存続しました。
明治時代になると後白河天皇陵は宮内省の管轄になりましたが、平成3年、後白河天皇の八百回の御忌に、法華堂におかれていた法皇像の模像を作成する許可を宮内庁から得て、平安仏所の江里康彗師が作成したのが下の像です。
後白河法皇像は六条の「長講堂」にもありますが通常では拝観できません。新熊野神社の本殿の背後にある「京の熊野古道」の中ほどに、小さな木造があります。上の像と同じ像を模像したようです
銀閣寺の北隣にある「浄土院」 この寺の前身の「浄土寺」には、平安時代中期、皇室の皇子・皇女が入寺し、藤原道長の病平癒、中宮・藤原彰子御産、三条天皇の眼病平癒など宮中の祈祷なども行われました。
丹後局(高階栄子)は後白河法皇の側近の平業房の妻でした。しかし、治承3年の政変で平清盛によって業房は討たれ、丹後局は鳥羽殿に幽閉された後白河法皇に近侍、やがてその寵愛と信任をもとに発言力をもつようになりました。
源氏が各地で兵を挙げて平家が都落ちをし、壇ノ浦で滅亡した後、若年の後鳥羽天皇を進言し、法皇と鎌倉の源頼朝との調整役となり何度も交渉に当たりました。法皇が崩御すると丹後局も出家、法皇の遺言により山科に所領を与えられました。
西本願寺近くにある「風俗博物館」は古代から近代にいたるまでの日本の風俗・衣裳を実物展示する博物館とし昭和49年に開館、平成10年からは「源氏物語」の様々なシーンを題材にしています。
下は藤原道長の春日詣の献饗の場面で、春日社は768年に藤原氏によってその氏神と祖神を合わせ祀って創始され、藤原氏の絶大な権勢とともに、朝廷の公的な祭祀を受ける別格の社となりました。
左は道長の長男・頼通、右は道長の信頼が厚い藤原行成。最後は、この宴を館の外で警護する武士で、やがて武士が台頭する時代が訪れます。
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コメント
こんばんは。ゆーしょーです。
さすが京都、千年の都の歴史がものを言いますね。
僕らは一番勉強をしなければならない小学高学年から
中学にかけて、戦争や戦後のどさくさであまり勉強を
していないので、歴史などは疎いのです。
和気清麻呂の姉が和気広虫という人なのですね。
女性なのに男性のような名前ですね。
ポチ♪2
投稿: ゆーしょー | 2023年9月25日 (月) 03:45