二宮金次郎を探して
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かって、多くの小学校には二宮金次郎(尊徳)像がありました。明治37年に尋常小学校修身科国定教科書に尊徳の業績がとりあげられ、その後各地の小学校にまきを背負って読書する像(負薪読書像)が設置されました。平安神宮の「大鳥居」
しかし、時代と共にこの像が撤去され、今ではなかなか見ることがありません。撤去の理由は、児童の教育方針にそぐわない、子どもが働く姿を推奨できない、戦時教育の名残、などと指摘されたことです。「京都府立図書館」
「二宮尊徳先生像」 昭和15年に京都書籍雑誌商組合が建立。この時代に全国の学校に負薪読書の金次郎像が寄贈されました。現在では歩きスマホのこともあり問題だといわれますが、その意味ではこの座像は時代を先取りしていました。
二宮尊徳(1787-1856)は、江戸時代後期に百姓の長男として生まれましたが、田畑は洪水で荒れ、父は早く亡くなりました。金次郎は野良仕事に加えて、朝は薪とり、夜は草鞋づくりをして一家4人の生計を立てたといわれます。
しかし、母も亡くなり二人の弟はそれぞれ親戚に預けられました。さらに洪水によって田畑は失われてしまいました。「京都市立嵯峨小学校」正門の横に金次郎像が残っています。以下は現在も小学校あるいはその跡地に残っている金次郎像です。
金次郎も親戚の家に寄宿して耕作に励みながら、堤防にアブラナを植えたり田植えの際に余って捨てられた苗を用水路に植えたりすることによって、新たに米一俵の収穫を得ました。
何回か親戚の家を渡り歩き、最後に親戚で名主の二宮七左衛門方に寄宿しました。ここでは余分に耕した米20俵を得て、20歳になった文化3年(1806)に家に戻り、生家の再興に着手しました。亀岡の「保津小学校」
家を修復し、質入田地の一部を買い戻し、田畑を小作に出すなどして収入の増加を図りました。しかし、弟の富治郎はこの頃に亡くなってしまいました。統合によって撤去された春日小学校の跡地にできた「春日デイケアセンター」。
生家の再興に成功すると、金治郎は地主や農園経営を行いながら自身は小田原に出て、武家奉公人としても働きました。小田原藩士の岩瀬佐兵衛、槙島総右衛門らに仕えました。八幡市の四季彩館がある「都々城小学校跡地」
文化5年(1808)困窮した母の実家・川久保家を資金援助、翌年には二宮総本家伊右衛門跡の再興を宣言して基金を立ち上げました。「京都市学校歴史博物館」(旧開智小学校校舎を利用)
小田原藩で1,200石取の家老の服部十郎兵衛が、金次郎に服部家の家政の建て直しを依頼。金次郎は五年計画の節約でこれを救うことを約束、文化11年(1814)服部家の財務を整理して千両の負債を償却し、余剰金300両を贈りました。同上
小田原藩で既に評判となっていた金次郎は貢米領収桝の改正を建言。これが採用されて斗量を改正しました。また小田原藩士のための低利助貸法及び五常講を起こしました。開睛小学校に統合された「旧白川小学校跡地」
文政4年(1821)小田原藩主大久保家の分家・宇津家の旗本知行所であった下野国芳賀郡桜町が荒廃しているということで、その再興救済を藩主に命じられました。「室町小学校」
文政6年(1823)、金次郎は名主役柄・高5石二人扶持の待遇、移動料米50俵・仕度料米200俵50金を給されて、桜町に移住して再建に着手しました。「京都芸術センター」
文政9年(1826)には組頭格に昇進して桜町主席となり、再建は村民の抵抗にあって難航していましたが、天保2年(1831)には正米426俵を納める成果を上げ、同5年には1,330俵を返納。「田中神社」
同7年には封地4,000石租900石の所を実収3,000石にまで増やしたので、分度(支出の限度)を2,000石に定めて再建を成し遂げました。その方法は報徳仕法として他藩の指針となったそうです。(参道横の駐車場奥に金次郎像があります。)
ただし、これらの復興政策は必ずしも上手く行ったというわけではなく、村人らに反感を持たれ、上司の豊田正作に妨害されたときは突然行方不明になりました。(この金次郎像は、おそらく近くの小学校で撤去されるのを譲り受けたと思われます。)
間もなく成田山で断食修業していることが判明して、修業を終えて戻ると村人らの反感もなくなっていたといいます。千本通の北大路通と今宮通に囲まれた場所に浄土宗知恩院派の「西向(さいこう)寺」があります。
山門の手前に金次郎像があり、こちらも小学校から譲り植えたと思います。ところで、上で二宮金次郎の業績を詳しく書いたのは理由があります。金次郎の成功を、勤勉や滅私奉公のためだと評価してきたのは適当ではないと思っています。
合理的で正確な判断のもとで新しいアイデアを生み出し、忍耐強く努力を続けた結果だと思います。現在の日本は物価高や賃金の停滞によって相対的に貧困化が進んでいるといわれています。また、各地の自治体は財政難に苦しんでいます。
確かに負薪読書の金次郎像は時代にそぐわないですが、本当の二宮金次郎の業績はもっと評価されるべきだと思っています。最後の写真は田中神社。
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コメント
リセ様 お久ぶりです。PC交換が続きまして コメ出来なくなっておりました。
今日の金次郎記事では りせ様の分析が素晴らしく同意で コメいたしました。 毎日アップありがとうございます!
投稿: ジョージ夫人2 | 2023年9月10日 (日) 10:25
こんばんは。ゆーしょーです。
京都には二宮金次郎像が沢山残ってますね。
一つは戦災に遭わなかったためでしょうね。
和歌山市はほとんど戦災に遭い、戦災に
遭わなかった郊外の金次郎像もいつの間にか
撤去されています。
残っているのは、小6の時に金次郎の前で
級友たちと写した写真くらいです。
ポチ♪2
投稿: ゆーしょー | 2023年9月11日 (月) 01:03
★ ジョージ夫人2さん こんばんは♪
コメントありがとうございます。お久しぶりです。二宮金次郎については、記事にしてみて色々考えされられました。現在も金次郎像を贈る団体があるようですが、その意図は分かりません。
投稿: りせ | 2023年9月12日 (火) 00:58
★ゆーしょーさん こんばんは♪
京都市も小学校に残っているのは4校だけだそうです。それ以外は、かって住民が設立した番組小学校が前身の小学校跡地が多いです。そこの用途には住民の意思がある程度反映されるので、金次郎像が残っているのだと思います。
投稿: りせ | 2023年9月12日 (火) 01:03