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2023年9月26日 (火)

洛中・洛外を結ぶ道 中ノ町から富永町へ

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

今日は寺町通から離れて、昨日の記事の最後に現れた脇道を河原町通まで歩きます。上は寺町通からの写真です。この道の名称が分からないことから調べていくと、この道が開かれた経緯が分かってきました。

下は左から右が寺町通で、交差点(T字路)の北東の角は駐車場です。その向うに昨日の記事の聖光寺の本堂が見えます。左奥のクレーンは、おそらく透玄寺の敷地に建設中のマンション・寺院一体となった建物の工事のものだと思います。

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こちらはT字路の東南の角で、このお店は寺町通に面しているので紹介は省略します。左の道を奥に向かって歩きます。

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この脇道は、その名称が分からないときにいつも参照している「京都市認定路線網図」によると、前半(西半分)は開智緯1号線、後半は永松緯6号線という名称で、それぞれ下京区中ノ町と富永町に含まれています。

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上の路線網は市内の全ての公道に名称がつけられ、固有の名称がある場合はそれも掲載しています。固有の名称がない場合は、新しい道か、もともと名称がなかったのかのどちらかです。そこで「近代京都オーバーレイマップ」を辿ることにしました。

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同マップの最も古い明治25年の古地図でもこの道が確認できました(中央下の東西の道)。一方、当時の河原町通は鴨川の土手に造られた道で、明治末から昭和にかけての京都市の都市計画によってようやく現在の道幅になりました。

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上の地図で少し南で西から来るのは「仏光寺通」で、この辺りで分断されて再び東に現れます。下は「京都市下京消防団 永松分団」。

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「京都市総合教育センター」 主として、京都市立学校や幼稚園の教職員の研修や研究機能を有する、京都市教育委員会の施設です。

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「辰々ビル」の1階に「ひの整形外科医院」、2階に「デイサービスセンター ジョイ四条河原町」、5階に「のりこ鍼灸治療室」が入っています。

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右の看板が出ているのは「國友銃砲火薬店」、 花火打上げの請負・花火玉の販売・爆薬の販売、銃砲火薬装弾・実包の輸入販売、およびスポーツ射撃用品の輸入販売等を行う会社で、建物は國友ビルです。

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「M.Gヒルズ四条河原町」、2004築年、10階建、54戸、1DKのマンションです。この建物の1階に「ジャパニーズアイス櫻花」があります。

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繊細で洗練されたニッポンの味を追求するため、2018年にアイスを造る工房を東京から京都へと移転。東京は恵比寿、京都は富永町と嵯峨嵐山で、日本一のアイスクリーム屋さんを目指して取り組んでいるそうです。

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この辺りから通りの北側に塀で囲まれた敷地は「勝圓寺」、山号を大悲山という浄土宗の寺院で、京都文殊霊場の第9番です。

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室町時代の1504年に安誉が開山となり創建され、当初は東洞院五条北(下京区燈籠町)にあったといわれています。こちらが山門で、「京都文殊道場」という看板がかかっています。

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本尊として円派の仏師・勝円作の作阿弥陀如来を祀ったことから勝圓寺という名称になったといわれます。安土桃山時代の1587年頃、豊臣秀吉の命により現在地に移りました。

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この時期に空誉は塔頭・隆彦院(りゅうげんいん)、達誉は塔頭・普恩院を創建しました。江戸時代の最盛期には塔頭が4院あり、3000坪の境内を有する大寺院だったそうです。

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天明の大火(1788)で塔頭とともに焼失、その後再建されました。明治2年(1869)普恩院の地に下京十二番組小学校(永松小学校)が開校しました。永松小学校は昭和58年に開智小学校に統合され、現在は先ほの京都市総合教育センターになっています。

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下は、幕末の「京都古地図」で、勝圓寺は寺町通の他の寺と一緒に描かれています。しかし、三条の瑞泉寺のように、各寺の位置はその右の高瀬川や鴨川までの区間に分布していたと考えられます。

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永松小学校の学区は南北が四条と五条、東西は鴨川からこのあたりまででした。したがって、学区の児童が小学区に通うために、明治の初めには少なくともこの道があったと思われます。

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向かいに、永松小学校の開校のために移転した普恩院と勝圓寺の墓地があります。墓地は「无玄来苑」とばれ、医師・武川幸順の一族の墓があります。

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勝園寺は、明治以降にその境内は削られ塔頭は移動するも、江戸時代を通じて本堂や山門がある場所は移動していないと思われます。結局、山門が面するこの脇道は御土居ができて寺町が形成された当初から存在したと考えられます。

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下は、御土居(赤)と寺町(黄)です。秀吉は洛中と洛外を結ぶ七口だけ開きましたが、江戸時代には洛外に街が開け、多くの道が御土居を越えて開かれたといわれます。この脇道は早い時期からその役割を果たしてきたと考えられます。

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向こうは河原町通、左は「京阪四条河原町ビル」、右の「エスリード京都河原町第3」は築1999年、12階建、124戸、1K/1DKのマンションです。ここから再び寺町通に戻りました(最後の写真)。

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コメント

「國友銃砲火薬店」
珍しいお店ですね。どんな感じの店なのか、気になります。
でも、近くに住みたくないですよね。爆発しないとは思いますが、
万が一爆発したら、辺り一面粉々になるでしょうから。

投稿: munixyu | 2023年9月26日 (火) 17:15

こんばんは。ゆーしょーです。
近代京都オーバーレイマップって
なかなかいい地図ですね。
地図を見るのが大好きです。
古い地図を見るのも好きです。
ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2023年9月27日 (水) 02:09

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