檀王法林寺 だん王さんと主夜神
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三条京阪の高山彦九郎像の向かいに「だん王」と刻まれた大きな石標があります。「檀王法林寺」は 正式名称を「朝陽山 栴檀(せんだん)王院 無上法林寺」という浄土宗鎮西派の寺院で、一般には親しみを込めて「だん王さん」と呼ばれています。「三条門」
この地にはかって「悟真寺」がありました。鎌倉時代の文永9年(1272)浄土宗三条派の派祖、望西楼了恵(ぼうせいろうりょうえ)上人が、亀山天皇の帰依を受けて「朝陽山」の山号を賜り建立した寺院です。(境内には保育園があります。)
了恵上人は専修念仏の布教につとめましたが、その後悟真寺は応仁の乱をはじめ、度重なる天災や人災の被害を受けて、戦国時代の永禄年間(1558‐69)に廃絶したと伝えられています。「鳥之供養塔」京都食鳥組合が昭和33年に建立、題字は当時の高山義三市長。
悟真寺の跡地に檀王法林寺を建立したのが袋中(たいちゅう)上人です。袋中上人は若い頃から浄土宗の学僧として知られ、慶長7年(1602)51歳の時に明へ渡ろうとするもかなわず、翌年から3年間琉球国に留まりました。江戸時代の地蔵菩薩
帰国後の慶長16年(1611)京都に入り、悟真寺の跡地に草庵を建てて「法林寺」と名づけ、浄土念仏の教化や著述に没頭する一方で、寺域を拡張しました。平成24年4月12日の「縄手通交通事故犠牲者供養地蔵尊」毎年この日に供養が行われています。
「楼門」は明治21年(1888)の建立。楼内には十六羅漢像と大日如来像、両脇に四天王像を安置しています。こちら側(南)の扁額は「朝陽山」、反対側(北)の「望西楼」は、悟真寺を建立した了恵上人にあやかり、山階宮晃親王の筆です。
袋中上人は元和5年(1619)「法林寺什物帖」を弟子の團王(だんのう)上人に書き残して寺を譲り、自らは東山五条坂に袋中庵を創建して移り住みました。
四天王像は楼門新築に伴って購入したもので、大阪和泉の興善寺旧蔵のものと伝えられています。金網で囲まれて写真には写りにくい状態です。下の「広目天」は平安時代後期の作で、その他は鎌倉後期から南北朝時代の作と考えられています。
袋中上人のあとを継いで2世住持となった團王上人は、寺院興隆に尽力して恵心僧都作と伝えられる阿弥陀如来立像を本尊として阿弥陀堂(本堂)を建立して、寺域も現在の広さにまで拡大しました。
團王上人は人徳も厚く町衆信者との交流を深めたので、寺は庶民から「だんのうさん」と親しみを込めて呼ばれるようになり、現在でもその名の方が知られています。向うは寺が経営する児童館。
本堂の前の広場は、保育園の園児たちの運動場になっています。先ほど子どもたちが帰っていったので(TOPの写真)、この日は本堂の全景を写真に撮ることができました。本堂には、阿弥陀如来坐像(京都市指定文化財)を祀っています。
10世良空(りょうくう)上人は現在の庫裏を建て、玄関や方丈を新築、現在のような瓦葺きの屋根になりました。本堂の右手にあります。
その後、12世住持の良妙(りょうみょう)上人は本堂を始めとする諸堂の大規模な修理を行い、現在の姿になりました。
本堂の右手前にある「袋中上人御親筆大名号碑」 袋中上人が4mを超える料紙に書いた「南無阿弥陀仏」の名号を、昭和11年(1936)に偶然手に入った巨石に刻印したものだそうです。
ところで、かって鎮守社には「主夜神(しゅやじん)尊」が祀られ、袋中上人の頃に後水尾天皇など皇室の信仰が始まり、良妙上人の頃には霊元帝をはじめ皇室による保護をうけて発展しました。
主夜神は、恐怖諸難を取り除き、衆生を救護し、光を以って諸法を照らし、悟りの道を開かせるとされる神様だそうです。「本堂」の扁額「朝陽山」は増上寺83世大僧正法道の揮毫、袋中上人は江戸の増上寺で学んでいます。
良妙上人は本堂の北に主夜神堂を建立、主夜神尊御開帳の法楽の年次祭礼をはじめ、多くの信者を集めました。主夜神尊の御開帳祭礼は戦後に途絶えましたが、1998年に復活しました。本堂の前に「主夜神霊前」と刻まれた灯籠が残っています。
江戸時代中期から、主夜神の使いとされる黒色の「右手招き猫」が作られました。主夜神尊の銘を刻んだ当寺の招き猫は、寺社開運の招き猫としては最古のものだそうです。「念仏万霊塔」8世東暉(とうき)上人による「不断念仏会」の百余名の結縁記念。
授与品とし様々な「招き猫」があります。下は15cmの像(大)で、お守りや財布、招き飴もあります。庫裏(寺務所)で授与するほか、FAXでも受け付けているそうです。
明治4年(1871年)には免税特権の破棄を目的とした社寺上地令が出され、境内・墓地など寺地の大半が上知(国有化)されました。「人形塚」
当寺は檀信徒の寄進により寺地を拡大してきたため、御朱印地のような免税特権のある寺領はなく、上知されませんでしたが、当時の住持・幽誉玄了は京都府の牧畜勧業政策に乗り、庭園の木石を売却した跡地で豚の飼育事業を始めて失敗、
決して広くない寺地の一部と袋中時代の梵鐘を売り払う結果となってしまいました。幽誉玄了は檀家に糾弾されると姿を消してしまいました。「だん王保育園」の門ですが、正面からの撮影はできません。
保育園の横に、昭和12年(1937)に再建された「観音堂」があり、平安時代後期の作といわれる十一面観音立像を安置しています。
衰退してしまった当寺を再興するため、明治10年(1877)飛騨高山の大雄寺より第22世として信ヶ原譲誉上人が招聘されました。譲誉上人は檀信徒に協力を呼びかけると共に出身の大雄寺にも助力を願い出て、当寺の借財を返済することに成功しました。
さらに散逸した寺宝の回収と境内伽藍の復興にも力を入れ、質入されていた「日吉山王祭礼図」と「枇杷に麝香猫図」を取り戻しました。昭和61年に再建された「龍神堂」。
龍神堂に奉られていた「加茂川龍神」は、晴雨を司る神様として旱(ひでりや水難から守ってくれる神様です。晴天、雨請(あまごい)等の天候を祈願するお堂として古くから信仰を集めていましたが、現在は本堂に遷されています。
先ほどの三条門と二層楼門を新築して四天王像を購入しました。また長年の間に廃れていた儀式の復興にも尽力、明治13年(1880)に了恵上人の550回忌を行い、その木像を新造、明治21年(1888)には袋中上人の250回忌を行いました。
譲誉上人は後継となる人材育成や檀信徒の結集を図るため、明治26年(1893)の鴨川運河完成を機に川端通に面した境内地に10戸の借家を建築して、弟子や檀家を集中させました。譲誉上人は檀信徒から後中興の祖と呼ばれているそうです。
「川端門」 有栖川音仁親王一族は主夜神尊への信仰があつく、江戸時代の明和3年(1766)本堂再建の際にこの門を寄進しました。赤門あるいは開運門とも呼ばれ、昭和49年(1974)修復、京都市指定文化財です。かってはこの門が正門でした。
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コメント
こんばんは。ゆーしょーです。
浄土宗鎮西派の檀王法林寺ですね。
浄土宗に鎮西派という宗派が
あるのを知らなかったです。
親しみ込めて檀王法林寺を
だん王さんというのですね。
和歌山にも何々さん、何々さんと
言われるお寺やお宮があります。
ポチ♪2
投稿: ゆーしょー | 2023年10月 1日 (日) 01:30
★ゆーしょーさん こんばんは♪
お寺に保育園があるのも、近所の人に親しまれている理由でしょうね。小さい子を送り迎えしたり、行事などでお寺に出かけることが多いですから。
投稿: りせ | 2023年10月 3日 (火) 01:39