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2023年6月 7日 (水)

銀閣寺 新緑の名勝庭園2023

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「銀閣寺」は正式名称を慈照寺、山号を東山(とうざん)という臨済宗相国寺派の寺院で、相国寺の山外塔頭でもあります。 上は「総門」、下はその右手前にある「世継(よつぎ)茶屋」。

100年ほど前に開業、当時は参道で唯一の茶屋でした。1480年代に足利将軍・義政がここに東山殿(銀閣寺)を開いた際、世續左衛門丞が関東からこの地に近習頭4人の筆頭として同行、以来この世續家が続いているそうです。

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茶店の左に「銀閣寺開祖将軍義政公御近習頭(中尾城矢倉御殿采配)世續左衛門丞宗竹入道(殉死)拝領跡」の碑が建っています。宗竹入道は後に銀閣寺の住持になりましたが、三好長慶との戦いで銀閣寺が焼失した際、殉死しました。

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かってこのあたりには「浄土寺」という天台宗の寺院があり、現在でも地名にその名が残っています。「銀閣寺垣」中門までの約50mの生垣で、 下から石垣、竹垣、椿の生垣の3段になっていて、建仁寺垣を模したともいわれています。

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平安時代中期から皇室からの入寺が続き、宮中の祈祷や権力者・藤原道長の病平癒祈願なども行われました。しかし、室町時代の応仁の乱で浄土寺は焼失しました。「中門」、左に拝観受付があります。

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1473年室町幕府8代将軍・足利義政は将軍職を退き、浄土寺跡に山荘の造営工事を始めました。後土御門天皇から、山荘に東山殿という名が贈られ、1483年には常御所が建てられて義政が移り住んだといいます。「庫裏」

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1486年義政の持仏堂の「東求(とうぐ)堂」、1489年「観音殿」(銀閣)が完成。 「銀閣」(国宝) こけら葺き二層建て、下層は心空殿と呼ばれる書院造りの住宅風、上層は潮音閣と呼ばれる禅宗仏殿風の部屋で、観音像を安置しています。

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東山殿には粋をつくした数々の仏殿、邸宅や庭園が造られ、東山文化が花開きました。銀閣の脇に鎮守の「八幡神」が祀られ、学問成就、交通安全、災難除けのご利益があるとされます。足利氏の祖先の清和源氏の氏神でもあります。

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庭園には、義政の浄土信仰が反映され、作庭は義政が重用していた善阿弥の子・小四郎、孫・又三郎、配下の彦三郎、左近四郎などによると考えられています。「錦鏡池(きんきょうち)」の中央に「分界橋」、手前に銘石「北斗石」。

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建築資材や庭園の樹木は、小川御所、室町殿跡、仙洞御所跡などから調達、あるいは、武将、公家、寺院から寄贈されたといいます。 下は「向月台」 白川砂で造られた盛砂で、銀閣からの眺めを考慮した、あるいはこの上から月を眺めたともいわれています。

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しかし、1490年義政は東山殿の完成を待たずして逝去。その遺命によって別荘は禅寺に改められ、寺号は義政の法号「慈照院殿喜山道慶」に因み「慈照院」とされ、翌年「慈照寺」と改められました。途中にある渡り廊下「宝処関」の花頭窓から。

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開山には義政が尊敬していた故人の夢窓疎石(1275~1351)が勧請されて、相国寺の末寺となりました。 その後、1493年から1549年にかけて室町幕府の権威は弱体化、細川氏が管領を独占して実権を握り、足利将軍を操り細川政権とも呼ばれました。

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広く平らな盛り砂は「銀沙灘(ぎんしゃだん)」と呼ばれ、白川砂は光をよく反射し、月光を部屋に導く役割もあったといわれています。

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「本堂」(京都市指定文化財)は江戸時代初期に宮城豊嗣により再建、本尊の宝冠釈迦如来坐像が祀られています。

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1549年、幕府の相伴衆で摂津国守護代の三好長慶と一族の三好政長との間で「江口の戦い」が勃発、政長は戦死しました。細川晴元は政長を支援していたため長慶の追撃を恐れ、第13代将軍足利義晴と父の前将軍・ 義輝父子を伴って、近江坂本に逃れました。

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足利義晴・義輝父子は京都を奪回するため、銀閣寺の裏山に中尾城を築城しましたが、1550年5月義晴は病死し、義輝は同年11月に三好軍と交戦しました(中尾城の戦い)。

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「東求堂」(国宝) かつて足利義政の持仏堂として阿弥陀三尊像を安置していました。現在は、室町時代の秘仏「阿弥陀如来立像」、および、没後間もなく造られた法衣姿の「足利義政像」が安置されています。ときどき特別公開されます。

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本堂と東求堂の間にある「銀閣寺型手水鉢」 江戸時代の作で、側面の模様が僧侶の袈裟の文様に似ているので、袈裟型手水鉢ともいわれています。斬新な意匠から様々なコピー が作られたそうです。千利休もまねたといわれます。

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三好軍は鹿ヶ谷から北白川一帯に火を放ち、義輝は近江堅田へ逃れました。この兵火で慈照寺は観音殿と東求堂を除いて焼失、義政遺愛の名宝も失われ、庭園も荒廃しました。錦鏡池が東求堂の前まで回り込んでいて、中央は「白鶴島」、 左は「坐禅石」。

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この時期に前述の宗竹入道が慈照寺の住職をしていて、殉死したと考えられています。

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その後の1587年、公卿の近衛前久(さきひさ)が無住の慈照寺を別荘として隠棲しました。前久の叔母・慶寿院は室町幕府12代将軍・足利義晴の妻で、前久は元服の際に晴嗣(はるつぐ)の名を頂戴しています。

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「大内石」 寄進した大内政弘(1446-1495)は守護大名です。祖父の義弘も足利義満の北山第(金閣寺)造営に人数の供出を求められましたが、諸大名の中で唯一拒否し、義満に恨まれて後に挙兵して討たれました。

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錦鏡池にかかる橋を渡ったところに、樹齢500年といわれる槇の大木があります。

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山裾に来ると「洗月泉(せんげつせん)」が湧き出ています。洗月は水面に映る月がさざ波で洗われているように見えるという意味だそうです。

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洗月泉の脇にはたくさんのコインが投げ込まれています。

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向うに東求堂があり、手前の「白鶴島」には三尊石が建てられ、左右に石橋があります。三尊石は鶴の頭で、左右の石橋は翼を表しているそうです。この後池を少し回り込むともう一つの祠があります。

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コメント

銀閣寺からの月の眺めは、綺麗なんでしょうね。
秋は、なおでしょうか。見てみたいものです。

投稿: munixyu | 2023年6月 7日 (水) 19:02

こんばんは。ゆーしょーです。
銀閣寺は金閣寺ほどの派手さはないですが、
却ってそれがよく、僕の好きなお寺です。
世継茶屋とは滅茶苦茶古い老舗の店なのですね。
ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2023年6月 8日 (木) 00:21

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