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2023年6月 8日 (木)

銀閣寺 史跡から展望台へ

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の続きで、銀閣寺の拝観順路に沿って東山の麓まで来ました。順路はこのあたりから山の斜面を上っていきますが、その手前に東求堂の方に向かう分かれ道があり、その奥に祠があります。

行き止まりに「弁才天」が祀られています。立札には「七福神の一つ、音楽 才智 福徳の神」と書いてあります。また、弁財天は水の神でもあり、池や川を守っています。昨日の八幡神とともに、7月中旬に「八幡・弁天祭」が行われるそうです。

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昨日は1587年に公卿の近衛前久が慈照寺を別荘にしたことまでを紹介しました。それより以前、近衛前久は織田信長と親交があり、1580年には信長と本願寺の調停役を果たしました。

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しかし、1582年に本能寺の変で信長が自刃すると、前久は剃髪して「龍山」と号しました。1612年、前久が没すると、慈照寺は再び相国寺末寺に戻りました。(分かれ道に戻り、拝観順路にそって東山の斜面を上ります。)

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慈照寺は1614年徳川家康より35石の朱印状を得ます。1615年には檀越・宮城丹波守豊盛により建物と庭園の大改修が行なわれ、現在の寺観に整えられました。 「史跡 慈照寺 銀閣寺旧境内」の石碑があります。

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江戸期の改修の時点では、東求堂と銀閣以外の建物や東山殿創建当時の庭園の姿は失われていました。このあたりにはかっての庭園の石組遺構が残っていて、向う(北)では1930年の発掘調査で東山殿創建時の「西指庵」跡が発見されました。

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さらに石段の上には平地があり、かっての「竹亭(漱蘚亭)」の跡です。その左奥に湧き水の石組「お茶の井」が残っています。史跡の石組はこの水を下段の庭園に導くものと考えられています。

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湧き水はかって義政の茶の湯に使われ、現在でも茶会に用いられているそうです。1984年から1987年にかけての調査で、この石組は斜面に露出していた岩盤を加工したもので、蹲踞(つくばい)の原型となったと考えられています。

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右手の石が散乱している場所は、かって義政自身が石を組んだ枯山水庭園だそうです。三尊石のような石組みも見えます。

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江戸時代を通じて慈照寺の修改築が行われました。1639年には檀越の豊盛の孫・豊嗣が、客殿、玄関、庫裏、門を新築、銀閣が修復されました。(現在では、湧き水は先ほどの史跡の石組みではなく、この坂道の下を流れて錦鏡池に注ぎます。)

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1658年『洛陽名所集』では慈照寺が「銀閣寺」と呼ばれており、これが銀閣寺の初見だと思われます。(もう少しで展望台です。)

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やがて道は水平となり見晴らしがよくなります。手前に銀閣寺の庭園、向うは吉田山、奥は西山で一番高いピークは愛宕山です。

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吉田山の右の方に、左大文字が見えます。その左の麓には同じ相国寺塔頭の金閣寺があるはずです。右手前に京都大学理学研究科の天体観測ドームが見えます。

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下には、銀閣と銀沙灘、宝処関の花頭窓、本堂、庫裏、その奥に銀閣寺垣も見えます。

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江戸時代中期の1738年に総門、庫裏、東求堂、1742年に東求堂の修復が行われた記録があります。(銀沙灘の向こうに中門からの道も見えます。)

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江戸時代後期には、金閣寺・銀閣寺はすでに拝観(観光?)寺院だったようで、1802年『羇旅漫録』で滝沢馬琴が拝観料のことを記しています。銀閣の2階や鳳凰がはっきり見えます。

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展望台からの下り。かっては土に落葉が堆積して雨の日は滑りやすい道でしたが、数年前に整備されました。左の溝をお茶の井からの水が流れています。

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下り坂の途中に、銀閣の屋根が同じ高さに見える場所があります。杮(こけら)葺きの屋根の隅棟(稜線)の辺りがけば立って見え、傷んでいるのか汚れているのか分かりません。

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明治初年(1868)の神仏分離令後の廃仏毀釈により、本山の相国寺は財政的に困難な状況に追い込まれ、銀閣寺は荒廃しました。(先ほどの溝はやがて小川になって散策路とともに下っていきます。)

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明治30年(1897)16世・祥州元禎によって復興が始まりました。大正2年(1913)銀閣の解体修理が行われ、昭和6年(1931)漱鮮亭跡の石組、泉跡などが発掘されました。

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戦後の昭和26年(1951)東求堂と観音堂が国宝に指定されました。(銀閣の撮影スポットの一つ)

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昭和40年(1965)東求堂の解体修理が行われ、東の「同仁斎」と呼ばれる4畳半の書斎の部材から「いろりの間」の墨書が見つかりました。(銀閣の前の石が諸侯石の一つ「浮石」です。)

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義政の時代に室内に炉が切られて茶を点てていたとみられています。同仁斎が四畳半茶室の始まりという説を裏付けるものと考えられています。(銀閣の横を通ります。)

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平成6年(1994)銀閣寺は「古都京都の文化財」の一つとして世界文化遺産に登録されました。平成20年(2008)の学術調査により、当初から2階の外壁には黒漆が塗られ、銀箔を貼った形跡がないことが確認されました

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また、2階の外壁の軒下部分からは花などの模様をかたどった赤や青に彩色された跡が見つかりました。銀閣は、わび・さびの東山文化の極致といわれますが、建設当初は現在よりも華やかな外観だったようです。

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建設当初の外壁の一部を再現したものが、出口横にある茶店の中庭に展示してあります。修復工事を主導する府教育委員会は、壁や軒下に黒漆を塗ることで老朽化を防ぐことができ、創建時の外観に戻すように提案しました。

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しかし、銀閣寺は「東山文化を代表する枯淡( こたん ) の美が失われる」と難色を示し、見えない部分を補強するだけになりました。先ほど見た屋根の傷みも、あえて自然の風化に任せているのかも知れません。

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コメント

でも、創建時の外観も気になりますよね。
老朽化との兼ね合いで、完全復活することもあるかもしれませんね。

投稿: munixyu | 2023年6月 8日 (木) 18:40

こんばんは。ゆーしょーです。
銀閣寺の裏山に登れるのですね。
そこからの眺めはとてもいいですね。
銀閣寺そのものも高い位置にあるのですね。
そういえば銀閣寺の塀に沿って歩いた時
上り坂でした。
ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2023年6月 9日 (金) 00:53

★munixyuさん こんばんは♪
確かに、年月が経てば自然に枯れた姿になるのだから、最初は少し派手でもいいのかも知れませんね。

投稿: りせ | 2023年6月12日 (月) 23:23

★ゆーしょーさん こんばんは♪
今出川通は百万遍からかなりの傾斜で、最後の参道は特に急な坂です。参道からでも下の景色が見渡せるところがあります。

投稿: りせ | 2023年6月12日 (月) 23:28

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