俳句でめぐる京都 その1
過去の全記事 2006年1月27日から毎日更新しています。
古来から多くの歌人や俳人が京都の風物を詠んでいます。そのような中から、今日は寺社で見かけた句碑(その1)を紹介します。季節は春から夏にかけて、最初は嵯峨野の「落柿舎」です。
江戸時代の俳人・向井去来が落柿舎を営み、俳諧道場としたのは貞享4年(1687)以前だといわれています。去来は芭蕉の門人で、芭蕉の言葉に「洛陽に去来ありて、鎮西に俳諧奉行なり」と称 えたそうです。
敷地内には去来、芭蕉をはじめとして10近くの句碑が点在しています。芭蕉はここに20日ほど滞在、立ち去るときの寂しい思いを「五月雨や色紙へぎたる壁の跡」、「へぎたる」は「剥いだ」という意味です。
嵯峨野の「野宮神社」は天皇の代理で伊勢神宮にお仕えする皇室の女性が、伊勢へ行く前に身を清めた野宮(ののみや)の旧地です。
「野宮の竹美しや春しぐれ」 村山古郷 (1909-1986) は京都市に生まれ、國學院大學を卒業、1978年神奈川県の俳諧道場・鴫立庵(しぎたつあん)庵主となり、俳誌『嵯峨野』を主宰。鴫立庵は落柿舎、滋賀の無名庵とともに、日本三大俳諧道場の一つだそうです。
「二尊院」は、安時代初期の承和年間(834-848)に嵯峨天皇の勅願により、慈覚大師・円仁が華台寺を建立したのが始まりです。二尊院の名は、本尊の「釈迦如来」と「阿弥陀如来」の二つの如来像に由来します。
参道に句碑があり、丸山海道「春深し佛の指の置きどころ」、丸山佳子「萩咲かす二尊に触れて来し風に」。海道は京都出身の俳人で俳誌「京鹿子」を創刊、妻・佳子は名誉顧問。父は鈴鹿野風呂です。
室町時代初めの暦応2年(1339)、将軍・足利尊氏は洛中にあった館の近くに、菩提寺として「等持寺」を建立しました。書院の北の池は周囲に芙蓉が植えられ「芙蓉池(ふようち)」とよばれます。東部には大きな池があり、池泉回遊式庭園になっています。
右の十三重塔は足利十五代供養塔、左は青山柳為の句碑 「芙蓉池に風あるやなし 落花舞ふ」。青山柳為は俳画家で、柳史俳画八鴻会主幹、著作に俳画 絵手本画帳があります。
城南宮の神苑「楽水苑」は五つの庭からなっていて、枝垂桜で有名な「春の山」の次に、本殿の裏をとおって「平安の庭」があります。平安貴族の邸宅の寝殿造りの庭をモデルにしています。
臼田亞浪(うすだあろう、1879-1951)の句碑 「曙や 比枝のかすみの 街へのび」 亞浪は長野県小諸で生まれ、短歌を与謝野鉄幹に、俳句を高浜虚子に学び、俳誌『石楠』を創刊。比枝は比叡山のことだと思います。
「粟嶋堂」宝徳年間(1449-52)南慶和尚が紀伊国淡嶋から粟嶋明神を勧請、江戸時代にはその霊験が広く知られるようになり庶民の信仰を集め、光格天皇や孝明天皇も度々代参、后妃にも篤く信仰されたといわれます。
粟嶋堂の向かいに蕪村の句碑「粟嶋へ はだしまゐりや 春の雨」、蕪村は娘の病気平癒祈願に当寺を訪れ、雨の中に裸足でお詣りしている人を詠んだ句です。
「金福寺(こんぷくじ)」は平安時代に創建された臨済宗南禅寺派の寺院で、江戸時代前期に圓光寺の鉄舟和尚により再興されました。鉄舟は芭蕉と親交があり、貞亨年間(1684-1688)芭蕉が京都を訪れたとき金福寺にも宿泊したといいます。
上の写真の高台の上が芭蕉庵。その横に芭蕉がここで詠んだ句碑「うき我を淋しがらせよかんこどり」、その奥に鉄舟が芭蕉をもてなしたという井戸「芭蕉水」があり、今でも水が湧いています。閑古鳥はカッコウのことで夏鳥として日本に飛来します。
「石峰寺」は山号を百丈山という黄檗宗の寺院です。江戸時代の宝永年間(1704-1711)に萬福寺住持だった千呆(せんがい)和尚による創建で、伊藤若冲ゆかりの寺としても知られています。龍宮造の総門
本堂への参道の途中に鈴鹿野風呂の句碑「春風に五百羅漢のとはれ皃(かほ)」。鈴鹿野風呂(1887‐1971)は京都に生まれ高浜虚子に学び大正から昭和初期に活躍した俳人です。日野草城らと「京鹿子」を創刊、のち主宰しました。皃は姿のことだそうです。
智積院の講堂と大書院、名勝庭園は、通年で公開されている拝観区域です。金堂への参道の左に山門(唐門)があり、その向こうは講堂です。
山門を入って右に高浜虚子の句碑「ひらひらとつくもをぬひて落花哉」 1930年に虚子がここを訪れた際に詠んだ句で、「つくも」は太藺(ふとい)のことで、むしろや敷物を編むのに使い、夏に茎先から茶色い花が咲く草だそうです。
伏見稲荷大社には多数の石碑や歌碑がありますが、私が見つけた唯一の句碑が神楽殿の前にあります。神楽殿は正面の外拝殿の右手にあります。
山口誓子の句碑「早苗挿す 舞の仕草の 左手右手」 山口誓子(せいし、1901-1994)は京都府出身の俳人で、従来の俳句にはなかった都会的な素材、知的・即物的な句風などにより、秋桜子とともに新興俳句運動をけん引しました。
保津峡の山の中腹にある「大悲閣」は江戸時代の豪商・角野了以が創建した大悲閣千光寺という黄檗宗単立の禅寺です。「星のや京都」の裏手から急な山道の参道を登ります。
参道の入口に芭蕉の句碑「花の山 二町のぼれば 大悲閣」 芭蕉は落柿舎に滞在して去来と共に嵯峨野を訪れ『嵯峨日記』を著しています。しかし、嵯峨日記にはこの句がなく出所不明だそうです。後に嵯峨野を訪れた司馬遼太郎は次のように推察しています。
地元で句会を開いたときに参加者が記録し、芭蕉は気に留めていなかったのではないかと。大悲閣からは、小倉山(亀山)越しに京都市内が展望でき、その向うには比叡山から音羽山あたりまでの東山連峰が見えます(最後の写真)
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コメント
こんばんは。ゆーしょーです。
俳句の碑巡りは楽しいでしょう。
僕も嵯峨野歩きの時は必ず落柿舎へ寄ります。
去来の墓は小さいですよね。
野々宮神社に句碑があったの忘れました。
伏見のお稲荷さんへは何十年も行ってないので
正月以外の気候の良いときにまた行きたいです。
ポチ♪2
投稿: ゆーしょー | 2023年6月 4日 (日) 00:09