浄土院 丹後局と大文字
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銀閣寺の北隣の「浄土院」は山号を清泰(せいたい)山という浄土宗知恩院派の寺です。大文寺山の送り火を管理してきた寺として知られ、「大文字寺」とも呼ばれています。
このあたり一帯にはかって「浄土寺」とよばれる天台宗の寺院がありました。その創建年代等は分かっていませんが、平安時代中期の986年浄土寺で有明親王(醍醐天皇の皇子)の妃・藤原暁子が出家し、有明親王の子・明救(みょうぐ)も入寺しました。
明救は幼くして出家して浄土寺に住し、比叡山の天台座主・延昌に師事しました。藤原道長の病平癒、中宮・藤原彰子御産、三条天皇の眼病平癒など宮中の祈祷なども行い、後に僧正、25世・天台座主となった人物です。
以来、皇族が出家して住持を務めるようになり、門跡寺院となったようです。
平安時代末から鎌倉時代にかけて、高階栄子(1151?-1216?)の山荘と持仏堂があったといわれています。高階栄子(後の丹後局)は後白河法皇の側近・平業房の妻でした。治承の政変で平清盛によって後白河法皇が幽閉され、業房は処刑されてしまいました。
その後、高階栄子は鳥羽殿に幽閉された後白河法皇に近侍し寵愛され、1181年には法皇の皇女・覲子内親王を産みました。この頃から「丹後局(たんごのつぼね)」と呼ばれるようになったようです。 「地蔵尊?」
局とは高貴な人に仕える侍女のなかで身分の高いものの尊称です。同年清盛が死去し、丹後局は法皇の信任から、政治的にも力を持つようになり従二位の地位に昇りました。「仏足石」
著しい権勢とその美貌から、唐の楊貴妃にたとえられたそうです。平氏滅亡後は、法皇と鎌倉の源頼朝との調整役となりました。法皇の没後は出家しましたが、その後も権勢は続きました。小堂に丹後局(たんごのつぼね)の木像が安置されています。
若年の後鳥羽天皇に代わって土御門通親とともに朝廷の実権を掌握してきましたが、1202年に通親が死去し、後鳥羽上皇が本格的に院政を開始する頃には丹後局の実権は失われました。(小堂を覆うアクリルが反射して一部しか見えません。)
その後、丹後局は宮中から去り、晩年は亡き夫・業房の所領にあった浄土寺に住まいしました。このため、「浄土寺二位」と呼ばれたそうです。丹後局には6人の子供がいたそうで、子供の像も安置されています。
その後の鎌倉時代、浄土寺は興隆しました。この頃は、門主と寺院は所属が分離して、寺は延暦寺・金剛寿院、門主は青蓮院に属しました。 室町時代の1443年、六代将軍・足利義教(よしのり)の子・義躬(よしみ)が門跡となり、義尋と称しました。
室町時代の応仁の乱(1467-77)で浄土寺の多くの建物は焼失しました。さらに、文明14年(1482)足利義政により山荘・東山殿(後の銀閣寺)が造営され、浄土寺は相国寺の西へ移されました。「如是水」
唯一残された草堂も火災で焼失、本尊だけが残されたといいます。その跡地に泰誉浄久(たいよじょうきゅう)が寺を復興して浄土宗に改め「浄土院」と名づけました。 「手水」?
その後、江戸時代中期の享保17年(1732)には、随誉(ずいよ)により堂宇が再建されました。
昭和初期(1926-1989)、本堂など現在の堂宇が再建されました。
本堂に祀られている本尊は「義政公の持仏」という記録がある阿弥陀如来坐像で旧浄土寺の遺仏、寺宝の黒仏(藤原仏)は旧浄土寺の本尊と伝えられています。
ところで、8月16日の五山送り火は、盆の翌日に再びあの世に帰る精霊を送る京都の伝統的行事の一つです。「結縁小観音像」
五山の中心ともいうべき「大文字の送り火」は、長らく浄土院の約50件の檀家の農家が行事を行ってきました。人出や経費、火床にくべる割木の調達など、様々な困難を乗り越えて最近まで送り火を守ってきたそうです。
現在ではNPO法人「大文字保存会」が送り火の管理・維持にあたっていますが、浄土院が主催する宗教行事であることに変わりはありません。「聖観世音菩薩」
浄土院(銀閣寺門前)で護摩木が配られて参拝者が願い事を書き、当日大文字山に運び上げられます。大文字の中心に祀られている弘法大師像の前で住職による読経が行われた後、護摩木は火床まで運ばれ午後8時に点火されます。
弘法大師堂は3方と上下をコンクリートで仕切られた箱の形をしていて、大の字の中心の大きな火床の前にあります。住職は点火されている約30分間、弘法大師堂で読経を続けます。昨年はコロナ以前と同様に全ての火床に点火されました。
浄土宗の住職が、真言宗の宗祖・弘法大師を祀って般若心経を唱えるのは異例なことです。しかし、檀家の人々が伝えてきた独自の信仰を尊重するようにと、代々の住職が引き継いでいるそうです。
大文字の送り火の起源には諸説ありますが、祖先の精霊を再びあの世に送り出す盂蘭盆会の万灯会と同様の行事であることは確かです。「大」の字の筆跡については、上述の浄土院の歴史から資料に初見の青蓮院門主説が有力だと思われます。
この後、皇室とゆかりの深いもう一つの旧跡を訪ねました。
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コメント
檀家の人々は、大変でしょうね。
いつも送り火が見れて、有難いことです。
投稿: munixyu | 2023年6月 9日 (金) 18:56
こんばんは。ゆーしょーです。
14枚目が一番好きです。
明日、土曜日は早起き日なので、
これで失礼いたします。
ポチ♪2
投稿: ゆーしょー | 2023年6月10日 (土) 00:27