勧修寺 緑と花の境内をめぐる
過去の全記事 2006年1月27日から毎日更新しています。
一昨日は天気が良かったので山科に行ってきました。最初に訪れたのは勧修寺です。上は山門に至る長い参道で、長い築地塀には格式を示す5本の定規線が入っていて、その端に山門があります。
「勧修寺(かじゅうじ)」は、山科・来栖野(くるすの)にあり、山号を亀甲山という真言宗山階(やましな)派の大本山です。近郊の広大な土地には勧修寺の名がついていますが、こちらの呼び名は「かんしゅうじ」です。拝観入り口の「中門」。
中門を入ると右に「宸殿」があります。江戸時代の1697年明正院(めいしょういん、明正上皇)の旧御所から移築された建物で京都市文化財。この左を抜けて本堂の方に向かいます。
勧修寺は、平安時代前期の900年、醍醐天皇が生母の藤原胤子(いんし)追善のために、東大寺の承俊律師を開山に迎えて創建したのが始まりです。勧修寺の名は、醍醐天皇の祖父・藤原高藤(たかふじ)の諡号からとったものです。「書院」
この地は醍醐天皇の祖母・宮道列子(みやじれっし)の実家があった場所で、祖父母の恋物語の舞台でもあります。下の「臥竜の老梅」は樹齢300年といわれる白梅で、親は根が残り、子は枯れ木、孫は今も花を咲かせて3代が一つになっています。
その恋物語は『今昔物語』や『伊勢物語』、『交野少将物語』などに取り上げられ、醍醐天皇にとっても重要な意味があることは後で分かります。 生垣の中にある「勧修寺型灯籠」は水戸光圀が寄進したと伝えられる雪見燈籠です。
藤原高藤(838-900)は平安時代前期の藤原北家の公卿、左大臣・藤原冬嗣の孫、内舎人・藤原良門の次男です。高藤が15,6歳の頃、南山階(山科)に鷹狩に行ったとき、栗栖野で雷雨に見舞われました。「五大堂」
鷹狩りは父の趣味で、高藤も幼い頃から慣れ親しんでいましたが、この時は馬飼の舎人を連れただけでした。 「本堂」(市指定文化財)は江戸時代に霊元天皇の仮内侍所を移築したもので、醍醐天皇の等身大といわれる千手観音立像を安置しています。
高藤は、雨宿りに立ち寄った大領(たいりょう、郡司)の宮道弥益(いやます)の屋敷で一夜を過ごすことになりました。 (本堂の向かいの林の中に弘法大師像、その周りに四国八十八箇寺の霊石が並べられています。)
このとき、酒や肴を運んできた弥益の娘・列子は、鄙びた家の娘とは思えぬほど美しく、恥じらいがちに馴れない給仕をする仕草も可愛いいものでした。 「氷室(ひむろ)池」
腹いっぱい食べ酒も飲んだ高藤は、床についたものあの娘が心に残って眠れません。娘を呼んで間近で観るとより美しく愛おしく、契りを結びました。( ここは「勧修寺氷室園」といい、池を中心とした池泉回遊式庭園で京都市指定名勝になっています。)
眠れぬ秋の夜長に高藤は二人の未来を固く約束し、形見の太刀を残して暁に立ち去りました。列子は高藤よりも若かったようです。(池の中央の高い木は「千年杉」と呼ばれ、アオサギの巣があります。)
池の名となっている「氷室」とは、冬に得られた氷や雪を貯蔵する施設のことで、宮中では夏に食品の貯蔵や氷菓子として毎日多量の氷を消費したそうです。(池には睡蓮やハナショウブ、キショウブなどが咲いていました。)
一方、父の良門は帰らぬ息子を夜通し待っていました。高藤は幼さを叱られ、無断外出は禁止、鷹狩りも止められました。高藤はひたすらあの娘を恋しく思いますが、馬飼の舎人は暇をとって田舎に帰り誰もあの家の場所を知らず、外出もままなりませんでした。
4,5年が過ぎたとき、父は亡くなってしまいました。伯父の良房が後見となってくれましたが、高藤はあの娘を忘れず縁談も断りました。(上は「観音堂」、昭和の建物で美しい観音菩薩像が祀られています。)
あれから6年が過ぎたとき、ようやく馬飼の男が田舎から上京したことを聞いて、あの家に案内してもらいました。 再会した列子は別人の様に美しい女性になっていて、その傍らに可愛い5、6歳の女の子がいました。
子の名は胤子(いんし)、列子はあなたの子ですといいます。 枕上にはあの太刀が置かれ、女の子は自分にそっくりです。感激した高藤は、列子と胤子を車に乗せて連れ帰り妻と子とし、夫婦はさらに二人の男子をもうけました。
しかし、若くして後ろ盾を亡くした高藤の出世は遅く、30歳のときようやく従五位に叙せられました。 いくつかの武官や尾張守など諸国の地方官を歴任するも、昇進は遅く従五位に留まったままでした。(池の周囲をめぐります。)
ところが、887年娘の胤子が嫁いだ源定省(光孝天皇の第7皇子)が皇族に復帰して即位、宇多天皇となります。すると、官位は急速に昇進して890年には従四位下となりました。池の周囲には八十八所めぐりの石仏が置かれています。
さらに、893年宇多天皇と胤子との間の皇子・敦仁親王が立太子となると、翌年に三階級昇叙して従三位に叙せられ公卿に列し、翌895年参議となりました。(建物跡らしきものもあります。)
ところが、896年には娘の胤子が若くして亡くなりました。897年敦仁親王が即位して醍醐天皇となると高藤は正三位・中納言に叙任され、899年大納言に昇ります。翌900年には内大臣に任じられるも2か月後に逝去。享年63。「弁天堂」
高藤と列子の恋愛が、当時の中流階級にとっての成功譚とみなされ、玉の輿の語源になったともいわれています。
ちなみに、胤子の弟・藤原定方は百人一首で知られた歌人で、そのひ孫が紫式部です。高藤と列子が結ばれなかったら、紫式部や源氏物語も生まれなかったといえます。
また、菅原道真が学問の神として崇拝されるきっかけとなったのは、藤原氏の全盛期にあって宇多天皇に重用されたからです。
さらに、醍醐天皇は現在に至るまで皇族ではない身分に生まれて即位した唯一の天皇です。祖父母の恋愛が成就したことにより自分が存在しているとして、勧修寺の創建は重要なことだったのでしょう。
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コメント
こんばんは。
一夜の契りで可愛い女の子が出来たのですね。
再会の時に見た娘は、高藤の娘であってほんとに
良かったです。
列子がよそへ嫁いで嫁ぎ先との間に生まれた
娘ではないかと一瞬思いました。
今日の物語は最後まで読みました。
良かったです。
ポチ♪2
投稿: ゆーしょー | 2023年5月15日 (月) 01:21
★ゆーしょーさん こんばんは♪
登場人物が多くて複雑なストーリーを要約するのが大変でした。読んでいただけて嬉しいです。
投稿: りせ | 2023年5月18日 (木) 00:49