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2023年5月16日 (火)

佛光院 大石順教尼と大塚全教尼

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

先日、山科の勧修寺を訪れたあと、南隣りの佛光院に立ち寄りました。勧修寺の参道入口に納経朱印は佛光院へとの看板と、その横に「大石順教尼・大塚全教尼をしのぶ月例会」の案内があります(上の写真)。

「佛光院」は、かって勧修寺の塔頭があった場所に、昭和26年(1951)に大石順教尼が創設した真言宗山科派の寺院です。

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大石順教は、本名を「よね」といい、明治21年に道頓堀付近の「二葉寿し」の次女として生まれ、間もなく養子に出されました。幼少の頃は山村流に師事し、明治32年(1899)11歳で京舞の名取となりました。「本堂」

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明治34年(1901)15歳のとき、大阪堀江のお茶屋「山梅楼」の芸妓になり「妻吉」と名乗り、その主人である中川萬次郎の養女となりました。(本堂には彼女の念侍仏といわれる本尊・千手観音が祀られています。 )

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明治38年(1905)6月21日、恐ろしい事件が起きました。妻が行方をくらまし酒浸りになっていた萬次郎は、妻が男と駆け落ちをしてその行方を同居していた妻の母、妹、弟らが隠していると邪推して、殺傷事件を起こしたのです。「休憩所」

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妻の家族3人と養女の芸妓2人が日本刀で切り殺され、よねは両腕を切断され顔にも切り傷を負いましたが一命だけは取り留めました。その後、萬次郎は自殺をはかるも果たせず警察に自首。この「堀江六人斬り事件」は当時の人々に衝撃を与えました。

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よねは退院後、話題の事件の被害者である自分の姿を見世物として、寄席や地方巡業で生計を立て実の両親の生活を支えました。その後、長唄や地歌を披露する地方(じかた)として二代目三遊亭金馬の一座などに加わり旅巡業をはじめました。(本堂の右)

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そんな時カナリアが嘴で雛に餌をやるのを見て、口で字を書こうと決意します。敬坊(後の柳家金語楼)に字を学び、独学で書画を始めました。この頃、死刑執行された義父の墓を四天王寺に立てました。よねは義父を許して刑務所に面会にも行っていました。「慈手観音」

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やがて書画は評判を呼ぶほど上達して、旅巡業から引退して「割烹松川家」を開店し女将になりました。明治43年(1910)大阪市天王寺区生玉の持明院住職・藤村叡運僧正に師事して、国文学や和歌を学び始めました。

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明治45年(1912)、日本書画家・山口草平と結婚、同年に長男、大正6年(1917)に長女をもうけました。1923年2児と上京して呉服行商や絵更紗帯などを描き生計をたてましたが、関東大震災に遭遇して個展のための作品をすべて失ってしまいました。「車石」

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苦しい生活の中、夫の不倫により昭和2年(1927)協議離婚、この頃から身体障害者の相談を始めました。昭和8年(1933)高野山金剛峯寺で得度して名を「順教」と改め、昭和11年(1936)勧修寺境内に身体障がい者福祉相談所「自在会」を開設。

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昭和26年(1951)に佛光院を建立し、自分と同じ立場の身体障がい者の自立を支援する福祉活動に励みました。

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口を使って描く書画は昭和30年(1955)日展に入選、昭和37年(1962)には日本人として初めて世界身体障害者芸術協会の会員に選ばれ、昭和41年(1966)ミュンヘン美術館で個展を開催しました。(本堂の左に御朱印の受付があります。)

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順教尼は半生、身体障がい者の支援活動を続け、昭和43年(1968)4月、81歳で亡くなりました。順教尼「何事も成せばなるてふ言の葉を胸にきざみて 生きて来し我れ」、自伝『無手の法悦(むてのしあわせ)』があります。

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本堂と庫裏の裏に庭があり立ち入りできませんが、奥に歌碑が見えます。吉井勇(1886-1960)「そのむかし 臙脂(えんじ)を塗りし くちびるに 筆をふくみて 書く文ぞこれ」 臙脂は少し黒く深みのある艶やかな紅色のことです。

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その後を継いだ大塚全教尼も身体に障がいがありました。彼女は広島県に生まれ、4歳の時に脊椎性の小児麻痺で両肩と足の自由を失います。(本堂の左に大石全教尼の写真や二人の作品が飾ってあります。)

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大塚全教尼は、小学3年生の時にわずかに動く左手で描いた菊の写生画を先生に褒められたことで、画家を志しました。そして、書や絵画の創作や著作活動を続け、世界身体障害者芸術家協会名誉会員に選ばれました。

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一方で、昭和14年(1939)、21歳の時に順教尼に師事して以後は寝食を共にし、25歳で出家得度しました。順教尼が亡くなった後はその意志を継いで、身体障がい者の自立支援団体「この花会」を引き継ぎました。「大石順教尼」

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大塚全教尼は平成19年(2007)に亡くなりました。享年89歳。著書に『仏の光りに導かれて』高野山出版社、『仏の御手をいただいて』法蔵館 別冊ひとりふたり、『この花のいのち 生かされて生きる』春秋社などがあります。

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毎月21日10時から勧修寺山門右にある身障者いこいの家で「大石順教尼・大塚全教尼をしのぶ月例会」が行われます。二人にゆかりのある人の集まりではなく、無料で様々な資料や作品をみて、二人の生涯に触れることができます。

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コメント

こんばんは。ゆーしょーです。
18枚目の写真に、蓋付きの湯飲み茶わんが写ってますよね。
昔はこのような茶碗をよく見かけましたが、先日、何軒かで
尋ねましたが、蓋付きの湯飲み茶わんは置いてないということです。
仕方なくビニールでできた蓋を100均で買ってきました。
お茶に埃がはいらないかと気になるのです。

投稿: ゆーしょー | 2023年5月17日 (水) 01:59

ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2023年5月17日 (水) 01:59

★ゆーしょーさん こんばんは♪
確かに最近蓋付きの湯飲み茶わんを見かけませんね。私もありあわせの蓋を使っています。

投稿: りせ | 2023年5月18日 (木) 02:17

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