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2023年5月30日 (火)

大将軍神社東三條社 御神木復活と盗難事件

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

気になっていることがあったので、東山三条にある大将軍神社を訪れました。最近では神社自身が「大将軍神社東三條社」と名のっていますので題名はそれに従っています。(上は東の鳥居。)

以前、2018年の台風20号で倒壊した拝殿が再建されたことを記事にしました。鳥居の横の高さ約15メートルのモチノキが倒れて拝殿を押しつぶし、文化財に指定されていない拝殿を再建するために氏子や住民たちが奔走した話でした。

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創建の経緯については諸説ありますが、延暦13年(794)の平安京遷都の際、桓武天皇は大内裏鎮護のために都の四方に「大将軍」を祭神とする大将軍神社を置き、この神社は東の方角を守っているといわれています。「社務所」

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特にこの地は、平安京に入る七口の一つ、三条口の要地に当るため、邪霊の侵入を防ぐのに重要視されてきたそうです。「拝殿」

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社殿はたびたびの戦火によって廃絶し、江戸時代の文政12年(1829)朝議大夫(ちょうぎたいふ)陸奥守千葉正胤(ちばまさたね)がこの地に再興しました。

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現在の本殿には、祭神として素盞嗚尊を祀り、相殿には関白・藤原兼家を祀っています。藤原兼家を祀っている理由は、かってこの地に屋敷があったからです。

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平安時代中期、釜座(かまんざ)三条あたりに藤原兼家・道長の大邸宅があり、東三條殿と呼ばれていました。このあたり一帯が「東三条」とも呼ばれるのはその名残りだそうです。「絵馬堂」

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藤原兼家(929-990)は989年に太政大臣、990年に関白になり。藤原氏の摂関政治の基礎を築き、その子の道長のときに藤原氏の全盛期を迎えます。関白太政大臣・藤原道長(996-1027)は、父兼家の神像画を合祀して東三條殿の鎮守としました。

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東三條殿は1156年の保元の乱、応仁の乱(1467-1477)で火災に遭い失われました。現在その鎮守社の跡に「天満宮」が建てられていて、「東三條社」の社標石が残されています(上の写真)。

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天満宮の右には「白龍弁財天」が祀られています。白龍は弁財天の化身で、人間を改心に導き、自然界の神と崇められたといわれています。

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本堂の右奥の「隼(はやぶさ)神社」 奈良市角振新屋町にある隼神社は、治承4年(1180)の兵火で失われその後神木を祀るようになり、平安遷都に伴い京都に分祀されたといわれています。

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祭神の角振(つのふり)神・隼神はともに(災いをはねのける)攘災神とされます。平安時代初期に平安京朱雀院に隼神社が勧請され、10世紀までに東三条殿の西北隅にも鎮守として勧請されたといわれています。「神馬像」

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2018年の台風20号に続いて21号では、平家物語に登場する源頼政の鵺(ぬえ)退治の森の名残とされる樹齢800年のイチョウの大木の大枝が落ちてしまいました。翌年12月に訪れたときは治療法なのか全ての枝が切り落されていました(下の写真)。

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気になっていたのはこの木でしたが、ビックリするほど多くの枝が生えて若葉が茂っていました。本殿を守るように生えていて御神木になっています。

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周辺のビルにも負けない高さで、かっての森を思い起こさせます。

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境内の北西に「祭器庫」、その右には「神馬舎」があります。

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絵馬舎にはカワイイ神馬像がいました。かっては神社に馬を奉納する習わしがあり、現在の絵馬のルーツといわれています。

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上述の台風の前年の台風21号は京都にも被害をもたらし、時代祭が中止となり、野天満宮、知恩院、石清水八幡宮などの建物が一部破損しました。 区民の誇りの木の高さ約20mの榎の木が倒れました。こちらも枯れていないようです。

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そのため末社の「荒熊稲荷社」の祠と狛狐が下敷きとなり、建物は倒壊してしまいました。 氏子さんらの努力により、鳥居や社殿が新築され、怪我?をした左の狛狐も修理され、荒熊稲荷社が再建されました。(2019年の写真)

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ところが、今年の2月23日午後4時頃、総代の三芳徳光さんが孫と境内を訪れた際に荒熊稲荷社に供えられていた一升瓶が倒れているのを発見。本来あるはずの狛狐(木像)が台座のみを残して2体ともなくなっていることに気づきました。

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被害届を受けた東山署が窃盗事件として捜査していますが、現在でも見つかっていないようです。最近、神社の賽銭や社務所の金庫を狙った窃盗・強盗事件が増えているそうです。この日は代わりに石の狛狐が祀られていました。

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大将軍神社東三條社は由緒ある神社ですが、宮司さんが常駐しているわけではなく、日頃は氏子や近所の方によって維持・管理されています。神社に対する窃盗事件が増えていることは世の中が変わってきたと感じます。今となっては歴史のある手水舎。

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手水鉢にはアヒルと置物が入った水盤が置いてありました。近所の方の神社に対する思いがこもっている気がします。

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ところで、前述の鵺退治について。平安時代末、近衛天皇は毎夜清涼殿に現れ不気味な鳴き声を上げるもののけに怯え、病いになってしまいました。武勇の誉れが高かった源頼政(1104-1180)がもののけ退治に選ばれます。

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鵺の森に出かけると、夜更けになって月夜を黒雲が覆い、その中から頭が猿、胴が狸、手足が虎、尾が蛇の怪物(鵺)が現れました。頼政は南無八幡大菩薩と祈り鵺を射落とし、家来の猪早太(いのはやた)が太刀でとどめを刺しました。西の鳥居

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「獅子王」という号がある平安期の太刀が現存し、鵺退治の功により朝廷より頼政に下賜されたものとの伝承があります。『平家物語』には、太刀を授ける左大臣と賴政の間で交わされた連歌が記されています。

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「ほととぎす名をも雲井にあぐるかな」(空高く鳴き声を立てる ほととぎのように、 そなたも宮中に武名をあげたことよ)と褒めると「弓はり月のいるにまかせて」(三日月のように弓を張って射ただけです)と謙遜したそうです。

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コメント

窃盗・強盗事件が増えているということですが、
狛狐を盗むなんて、怖すぎて普通はできないはず。
日本の文化を知らない人が、それだけ増えたのかもしれませんね。

投稿: munixyu | 2023年5月30日 (火) 18:10

こんばんは。ゆーしょーです。
この罰当たり目が何を盗んだのかと思ってましたら
狛狐を一対盗んだのですね。
持って帰って家へ飾っておくつもりでしょうか。
世の中には変わった人もいるものですね。
ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2023年5月31日 (水) 01:42

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