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2023年5月29日 (月)

京の名木たち その2

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

先日、京都で見かけた巨木を紹介しましたが、必ずしも大きくなくても歴史や由緒がある樹木は、かっての都の風景を思い起こさせます。今日はそんな銘木とされる木々を紹介します。

西大路八条に「若一神社」があり、平清盛の手植えとされる大楠が見えます。平安時代後期、このあたりは西の交通の要衝で、平清盛(1118-81)の邸宅「西八条殿」があり、一族の邸宅も並んでいたといわれています。

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「知恩院」は浄土宗の総本山で、文暦元年(1234)法然の死後その弟子の勢観房源智が創建。戦国時代は荒廃しましたが、江戸時代になると徳川幕府から広大な寺地が寄進されて寺観が整いました。方丈庭園に三代将軍家光お手植の松(3代目)があります(看板の後ろの濃い緑が松です)。

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「乙訓寺」は真言宗豊山派長谷寺の末寺で、広隆寺の創建(603年)とほぼ同じ頃、聖徳太子が創建したとされます。しかし、長岡京建都の長官・藤原種継の暗殺事件に連座して早良親王が乙訓寺に幽閉され、淡路島に流罪となる途中に死去しました。

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早良親王の怨霊のせいか乙訓寺は衰退。その頃、空海は遣唐使として唐に渡り、わずか2年で密教の正当な後継者として認められて帰国、乙訓寺の別当に任命され、その復興を果たしました。境内の中央に空海のお手植えとされる菩提樹があります。

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境内東に応仁の乱も生き延びたとされるモチノキ(長岡京市の天然記念物)があり、昭和9年の室戸台風では大損害を受けました。被害著しい境内を見て長谷寺第68世の海雲全教和上が、牡丹2株を寄進したのが始まりで今では牡丹の寺としても知られます。

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長岡京市にある「光明寺」は西山浄土宗総本山です。法然上人は奈良に師を求めて比叡山を降り、この粟生(あお)野で一夜の宿を借り、20年後の承安5年(1175)にはここで初めて専修念仏の教えを説きました。

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文治元年(1185)平敦盛を討った武将・熊谷次郎直実が、戦によって積もる罪業を償い極楽往生の道を求めて法然を訪れ、修行の後に静かに念仏を称えられる地を求めて、法然ゆかりのこの地に建立したのが光明寺の始まりです。「法然上人袈裟掛之松」

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御影堂の前には昭和天皇が皇太子の時にお手植えされた松もあります。

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織田有楽斎は信長と年齢が13歳離れた弟で、本能寺の変では信長の長男・信忠とともに二条新御所に立てこもりましたが脱出して岐阜に逃れました。織田家には家伝の椿があり、花がピンク色なのが特徴で「有楽椿」、「侘助椿」といいわれています。「等持院」

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方丈北庭の茶室の前にある有楽椿は、豊臣秀吉の命による秀頼の再建時に植えられたとされます。樹齢400年以上で、幹が三又になっていて現存する有楽椿のうち最大だそうです。

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大坂冬の陣では大坂城にいて、穏健派として豊臣家を支える中心的な役割を担いました。一方、嫡男の頼長は強硬派で和平派としばしば対立しました。龍安寺の東庭にも秀吉が寄進した有楽椿があります(最後の写真も)。

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平安時代前期の897年宇多天皇の勅命により山科神社が創建され、隣接して神宮寺の岩屋寺が開かれました(下はその山門)。元禄年間の1701年大石内蔵助は、親戚で郷士・進藤源四郎が保証人になり、この地で家屋を新築して永住を偽装したとされます。

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茶室「可笑庵」、内蔵助の住居の古材を使い、左に内蔵助の手植えといわれる梅があります。

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堀川通と一筋西の小川通の間にある「本法寺」は日蓮宗本山(由緒寺院)の一つです。室町時代中期の1436年、本阿弥清信が日親上人を開祖にして創建したのが始まりとされます。清信は刀剣の鑑定士として将軍に仕え、本阿弥光悦の曾祖父にあたります。

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日親は激しい性格で将軍・足利義教にも改宗を迫り、その怒りをかい投獄され創建されたばかりの寺は焼かれました。さらに、1536年には比叡山衆徒による「天文法華の乱(天文法難)」でも寺は焼失。江戸時代に狩野叡昌が再建にとりかかり(本堂の正面に「叡昌松」)

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10世・日通は寺領千石の寄進を受け、本阿弥光二・光悦父子も私財を投じて再建に尽力しました。本堂の左手前に「光悦手植えの松」と「光悦像」があります。

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平安時代初めの貞観2年(860)清和天皇は王城鎮護のため男山に八幡宮の創建を命じ、宇佐八幡宮から八幡大神が勧請されました。清和天皇の嫡流である源氏一門は八幡大神を氏神として尊崇、武将たちを中心に八幡信仰は全国に広まりました。

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源義家は当社で元服し自らを「八幡太郎義家」と名乗りました。楠木正成が建武元年(1334) 必勝祈願参拝の際に奉納した大楠があります。男山に楠1000本を植えたとされ、社殿の西に現存する最大のものは樹高30m、樹齢は700年に迫ります。

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「宇宙桜」 平成20年(2008)高知県のひょうたん桜の種200粒が、国際宇宙ステーションの実験棟で約8か月滞在、若田光一さんとともに地球に帰還しました。その種から発芽、接ぎ木によって増やされた50本のうちの一つです。表参道の途中にあります。

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コメント

大きくはなくても、いろんな歴史的な木があるのですね。
たまには、こういう木巡りなんかもいいかもしれませんね。

投稿: munixyu | 2023年5月29日 (月) 18:06

こんばんは。ゆーしょーです。
京都は戦災に遭っていないので
銘木が数多く残っているのですね。
その点和歌山市は空襲に遭い、
国宝だった和歌山城が焼け落ちました。
今の和歌山城は、昭和36年に
再建された鉄筋コンクリート造りです。
ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2023年5月30日 (火) 00:58

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