今宮神社 あぶり餅と古地図
過去の全記事 2006年1月27日から毎日更新しています。
今宮神社の本社にお参りしたあと、東門の前の茶店であぶり餅を頂きました。今宮神社では大切に所蔵されてきた史料をデジタルアーカイブスとして公開しています。その内の古地図と比較しながら、境内の気になった場所を巡ります。
絵図の全体は東西の参道と境内を描き、現在の南の楼門やそこから北大路通に続く今宮門前通りはありません。
古地図「山城國愛宕郡紫野今宮神社之図」は江戸末期から明治初頭に今宮神社が描かれました。明治期に、境内の記録を役所に届け出るために描かれた図録は江戸時代の姿をとどめ、その後の境内の変遷を知る史料にもなっています。
東門の前には向かい合って二つの茶店があり、絵図でも現在と変わらぬ建物が描かれています。
二つの茶店の入口は少しずれていて、今宮神社をお参りしてからは南の「かざりや」さんの入口iが近くにあります。
「かざりや」は 江戸時代から創業400年を迎え、店先であぶり餅を串に刺して炭火で炙っていました。
熱いお茶と炙りたてのお餅が運ばれてきました。向かいのお店よりすこしお味噌の味がまさっている気がしますが、はっきりとは覚えていません。
向かいは「一和」(一文字屋和輔)さん。創業は長保2年(1000)とされ、一条天皇の子が疫病を患った時、疫除けの願いを込めてあぶり餅を供えたのがはじまりだとか。日本最古の商店だという方もいます。
古地図では、「本社」と左の「疫社」、「拝殿」、「社務所」が現在と変わらぬ姿で描かれています。一方、右手の「神輿庫」は現在東門の北に移されています。
社務所の前の小さな庭も現在と同じように描かれています。
今年の絵馬はシンプルなデザインで下。
「阿呆賢(あほかし)」さん 本社前の広場にある「神占石(かみうらいし)」は、古くから病弱な者はこの石に心を込めて、病気平癒を祈り、軽く手で撫で身体の悪きところを摩れば、健康の回復を早めるといわれています。
古地図には阿呆賢さんは描かれていません。古地図が明治政府の神仏分離令などの宗教政策が徹底されていることを示す目的だとすれば、神社の境内に仏教施設や庶民信仰の対象を描くことはできませんでした。
下は境内中央部の東から西です。絵図の中央には現在と同様に「若宮社」とその「拝殿」が描かれています。
「大将軍社」(登録有形文化財) 元禄8年(1695)頃建立。素盞嗚尊と同一神ともされる牛頭天王と八大王子を祀っています。かって平安京の四方に置かれたともいわれますが、近年大徳寺門前からここに遷されたとのことで、古地図にはありません。
若宮社の北には、現在と同様に「紫野稲荷社」が描かれています。祭神は伏見稲荷大社と同じく素盞鳴尊の御子神・宇迦御魂命(うがのみたまのみこと)で、五穀豊穣の神です。
古地図にはないのですが、現在はその右に「織田稲荷社」があります。神社の記録では、元々は上京区元伊佐町に「阿弥陀寺」があり、天正10年(1582)本能寺の変で倒れた織田信長とその家臣を葬った所とされています。
その後、豊臣秀吉の都市改造により阿弥陀寺は現在の上京区鶴山町(寺町通)に移されました。元伊佐町の跡地に織田稲荷社が鎮座していましたが、昭和62年に当社境内に遷されました。
長年、信長の遺骸はどこに葬られているか不明だとされてきましたが、現在では阿弥陀寺だとする説が有力で、このブログでも何度も紹介してきました。その説が今宮神社の記録でも裏付けられたといえます。「月読社」の鳥居
境内中央部の絵図で右に描かれた「地主(じしゅ)稲荷社」(登録有形文化財)が、現在は月読社の右手前に遷されています。かっては本社の前に必ずお参りする場所にありましたが、鎮守社への信仰が薄れてきたためかも知れません。
境内を見て回ると様々な遺物を見かけます。楼門の東にある「上西陣組」という石碑は神社の祭礼「今宮祭」を担う町組と分かりましたが、下の「篠屋組」の由緒は分かりません。楼門からは昨日の記事の大鳥居がかすかに見えます。
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コメント
僕は、より古い方に行きたくなるから、
一和の方に入るかなあ。
そのとき空いてる方に入るかもしれませんが。
投稿: munixyu | 2023年3月 2日 (木) 16:37
こんばんは。
古地図、すごく興味があり、
和歌山市の古地図を買ったり
貰ったりしています。
戦災前の和歌山市の
地図も持っています。
今宮神社での古地図は
売っているのでしょうか。
投稿: ゆーしょー | 2023年3月 3日 (金) 00:17