烏丸通を歩く 下立売から蛤御門へ
過去の全記事 2006年1月27日から毎日更新しています。
昨日の記事の菅原院天満宮神社を後に、烏丸通を北上します。上は「下立売通」との交差点角で、旧有栖川宮邸の「長屋門」(登録有形文化財)、下は菅原院天満宮神社の北隣の「日本聖公会 聖アグネス教会」(長屋門の前から見ています)。
「下立売通」は平安京の勘解由小路(かげゆこうじ)にあたります。少し寄り道して下立売通を西に一筋行きます。下は通りの南にある「平安女学院中学校・高等学校」
下は南北の室町通で、下立売通との交差点南西に「旧二条城跡」の石碑があります。天下統一をめざす織田信長は、足利義昭を室町幕府第15代将軍として庇護、上洛後の義昭の二条御所を信頼する家臣「村井貞勝」に造営させました。
村井貞勝は政治・外交面で重用され、足利義昭を追放して京都を完全支配下に置いた信長は、村井を京都所司代(天下所司代)に任じました。本能寺の変で村井は信長の嫡男・信忠の宿所の妙覺寺に駆け付けましたが、討ち死にしました。
市営地下鉄烏丸線の建設工事の際に、旧二条城のものと見られる石垣が発見され、現在の二条城の内堀の西に一部が移転・復元されています。「旧二条城址」の石碑が、室町通と下立売通との交差点南西角にあります。
「有栖川宮邸跡」有栖川宮は伏見宮、桂宮、閑院宮とならぶ世襲親王家の一つで、寛永2年(1625)後陽成天皇の第7皇子・好仁親王が創設。明治になって邸宅は御苑内に残され、一部がここに移築されました。現在は平安女学院有栖館となっています。
「ザ・パレスサイドホテル」の跡地、新都市企画と住友商事株式会社との共同事業で定期借地権分譲マンション「京都御所西プロジェクト」が昨年8月に始まりました。この地域は歴史遺産が点在して「御所西」というブランド名で呼ばれています。
「日本聖公会京都教区」C・M・ウイリアムス(1829-1908)は米国から来日した宣教師で、長崎・大阪・東京・京都で布教を行い、日本聖公会初代監督に就任しました。河原町五条にあった邸宅が昭和11年(1936)この地の京都教区教務所構内に移築。
その後,ウイリアムス氏記念館として使われていましたが、現在は京都教区主教邸として使用されています。「日本聖公會初代監督シ・エム・ウィリアムス師旧邸」の石碑が立っています。
「平安女学院大学 鳥丸校舎」 看板は「平安女学院大学観光センター」となっています。
向かいは京都御苑の「出水口」で、、左は先日記事に下「梅園」右に「出水広場」があり、少し寄り道します。京都御苑の有料施設以外の広場では、球技やドローン・ラジコンヘリ、ローラースケートのたぐい、などが禁止されています。
ただし、「出水広場」に限り、小学生以下が柔らかいボールで遊ぶことができます。広場の中央に京都御苑の大樹のひとつ「クスノキ」が生えています。
出水口の向かいは「スリーエース」 ソフトウェアの企業です。
「フレッシュ」不動産の会社です。右は「出水通」、途中京都府庁で中断して七本松通まで通じる通り。かつて御所の西に湧き水があり、しばしば道が浸水したことから名付けられたといわれ、沿道には出水の七不思議があります。
「山川友一装束店」看板には「御装束司」。装束司(しょうぞくし)は、朝廷の儀式や天皇の行幸の際にその衣装や設備の設営を担当する役人のことです。山川友一氏は『御神幸行列次第』の著者でもあります。
「ワタベウエディング」 ブライダル会社として創業70年を迎え、「リゾ婚」と「フォトウエディング」のキャンペーンを行っています。リゾ婚は国内外のリゾート地で結婚式を挙げることで、親族中心の小さな結婚式が多くなっているようです。
「護王神社」 奈良時代、権勢を振るった道教の天皇となる野望をくじき、平安京の建都に貢献した官僚・和気清麻呂とその姉で戦乱で身寄りを亡くした多くの孤児達を養育した和気広虫(ひろむし)を祀っています。
江戸時代末の嘉永4年(1851)、孝明天皇は清麻呂の歴史的功績を讃え、正一位の神階と護王大明神の神号を授けました。塀には 清麻呂の功績が描かれています。
「下長者町通」との交差点に「水戸藩邸跡」の石標が。水戸藩は御三家の一つで、2代藩主徳川光圀(みつくに)が『大日本史』編集をはじめて幕末まで継続されました。多数の係員が派遣され、借用資料の筆写も行われて拠点となました。
「京都ガーデンパレス」 私学共済の施設ですが、誰でも宿泊することができます。レストランや宴会場があり、結婚式や各種のイベントをすることができます。
「土御門内裏」は鳥羽(1103-56)・崇徳(1119-64)・近衛(1139-55)三代の天皇が約24年間にわたって利用した方一町規模の里内裏です。
上の写真の中央右のエントランス横に「土御門内裏跡」の石標が立っています。
ホテル内の南にある京料理「花ごよみ」は新型コロナのために臨時休業していますが、ランチとディナーの営業時間は「レストランブリランテ」で料理を提供しています。窓の外に梅が咲いていました。
「蛤御門」 幕末に起こった「蛤御門の変」は当時の政治的な大事件であっただけでなく、京都にとっては応仁の乱以来の市街を焼き尽くした戦争でした。詳しくは記事「京都御苑歴史散歩5 蛤御門の変」をご覧ください。
いまでも柱や扉に多数の銃痕が残っています。門の向こうに見える清水谷家の大椋は、奮戦を続けた長州藩の来島又兵衛が藩邸から応援に駆け付けた西郷隆盛らに狙撃されて討ち死にした場所です(最後の写真)。
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コメント
最近は、広場でもいろいろ禁止事項が増えて、なんか息苦しいですよね。
遊び場でも優良になるのは、寂しいことです。モラルが薄れてきたのでしょうか。
投稿: munixyu | 2023年3月13日 (月) 15:16
こんばんは。ゆーしょーです。
幕末に起こった蛤御門の変という事件、
知らなかったです。
京都を焼き尽くすとありますが、
神社やお寺は火災を免れたのですね。
ポチ♪ 2
投稿: ゆーしょー | 2023年3月14日 (火) 01:07