本満寺 大枝垂桜 2023
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京都地方気象台は昨日(3月24日)市内でソメイヨシノが満開になったと発表しました。平年より11日早く、1953年の観測開始以降、最も早かったそうです。昨日は食事に出かけるついでに何か所かの桜を見てきました。
最初に訪れたの出町の妙満寺です。「本満寺」は山号を広宣流布山(こうせんるふざん)、正式名称を本願満足寺という日蓮宗本山です。 寺町通から参道が続いて(上の写真)正面に山門があります。
「本満寺」は、室町時代の応永17年(1410)関白・近衛道嗣の嫡子・玉洞妙院日秀が、今出川新町に朝廷から敷地3万坪を与えられて創建したのが始まりです。
戦国時代の天文5年(1536)天文法華の乱で焼かれ、一時堺に逃れました。(毎年、庫裏の前の大枝垂桜がソメイヨシノより早く満開になります。既に根元に花びらが積もっていましたが、まだ見頃といえる状態でした。周囲を一周します。)
天文8年(1539)12世日重の代、関白・近衛尚道の外護により現在地に移り、後奈良天皇の勅願所となったといわれています。 塀の向うに妙見堂の建物が見えます。
安土桃山時代の文禄4年(1595)豊臣秀吉が方広寺大仏殿千僧供養会のため、天台宗、真言宗、律宗、禅宗、浄土宗、日蓮宗、時宗、一向宗に出仕を命じました。「書院」
この時、日蓮宗は出仕を受け入れ宗門を守ろうとする受布施派と、出仕を拒み不受不施の教義を守ろうとする不受不施派に分裂しました。 (書院の玄関前から。)
法華宗を信仰しない人の布施を受け入れたり供養を施さないというのが不受不施です。 不受不施派は権力に屈しないことから、江戸時代末期になるまでキリスト教とともに弾圧の対象となりました。庫裏の前から
その中で幕府と妥協する軟派(出仕は受け入れる受不施派)が生まれました。
本満寺は受不施派の拠点となり、12世・日重(1549-1623)、13世・日乾(1560-1635)、14世・日遠(1572-1642)は、それぞれ当時の総本山・身延山久遠寺の20世、21世、22世に就任しました。
本満寺は、江戸時代中期には塔頭10、直末55、孫末19寺があったほど興隆しました。さらに、宝暦元年(1751)35世日鳳が8代将軍徳川吉宗の病気平癒を祈願したことから、将軍家の祈願所ともなりました。 向こうが書院。
一方で、江戸時代には度重なる火災に見舞われました。寛文の大火(1661)、宝永の大火(1708)、天明の大火(1788)で焼失、その都度再建されました。
現在では、四院の塔頭(一乗院、守玄院、実泉院、法泉院)を残すだけになりました。
写真では見にくいかも知れませんが、風が吹くと花びらが舞い落ちます。
本堂は明治44年(1911)にも焼失し、昭和2年(1927)に再建されました。(枝垂桜の向かいに大きなソメイヨシノ・区民の誇りの木があります。)
上のソメイヨシノの横にある「浄行堂」、手水とともに「洗い浄行菩薩」が安置されています。
「七面堂」 14世日遠上人が七面山(しちめんざん)で千日の行を修して感得した法華経の守護神・七面大明神を祀ります。ここで、御首題(ごしゅだい)を頂きました。日蓮宗のお寺では御朱印と御首題を区別しています。
日蓮宗のみの御首題帳には「南無妙法蓮華経」と書かれた御首題を、他の宗派や神社の御朱印が混ざった御朱印帳には「妙法」と書かれた御朱印を頂くようになっています。だだし、厳格に区別していない寺院もあり、桜の時期特別の書置きの御首題を頂きました。
七面堂の右、本堂の左に、徳川家康二男・結城秀康(後の福井藩主)の正室・蓮乗院(?-1621、鶴姫)の石廟があり、石材は確かに江戸時代初期のものだそうです。
「本堂」には本尊の十界大曼陀羅および近衛尚道が奉安した日蓮上人坐像を安置。この像は、芹生村山麓より発見され、山中より法華経読誦の声が上がったという伝説があります。本満寺の山号の略称「広布山」の扁額がかかっています。
本堂の右奥にある墓地に尼子十勇士の一人「山中鹿之介」の墓があります。尼子氏が毛利氏に敗れた後、浪人となり上洛して主家の再興をはかった悲劇の武将として知られています。
1568年に東福寺の尼子勝久を還俗させて擁立、豊後・大友氏と連携して隠岐で挙兵、一時は出雲の大半を回復しました。しかし、毛利氏の反攻にあい1571年に吉川元春に捕らえられ、尾高・泉山城に幽閉されました。
ところが、脱走して上洛、織田信長を頼りました。1573年に信長の援助を得て因幡に侵入、鳥取城を落とすなど吉川勢と戦うも、1576年若桜鬼城を陥されて京都に逃れました。(TOPの写真に右に墓ありの石標があります。)
1577年今度は羽柴秀吉の軍下で毛利攻めに参加、上月城に主君勝久とともに籠りましたが、1578年毛利・宇喜多の大軍に包囲され勝久は自決、鹿之介もついに降伏、松山城に護送される途中殺されました。(山門の方に戻ります。)
山門横に「出町妙見宮」には妙見大菩薩(出町の妙見様)が祀られています。本満寺13世・日乾が自ら2体の菩薩像を刻み、14世・日遠は、開創した能勢妙見山に一体を祀ったといいます。干支妙見の一つの丑方(北北東あたり)。
お堂の横から塀越しに大枝垂桜が見えます。
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コメント
この時期は、あっという間に過ぎてしまって、
もったいないですよね。
投稿: munixyu | 2023年3月25日 (土) 16:28