桜咲く川端から幸神社へ
過去の全記事 2006年1月27日から毎日更新しています。
昨日の記事の本満寺のあと、近くの幸神社を訪れました。今日は、川端通から出発して幸神社に至る道筋を紹介します。上は蓼倉(たてくら)橋東詰のソメイヨシノ、私の標本木です。下は高野川の上流で、左岸は桜並木になっています。
下鴨神社は、かって愛宕郡(おたぎこほり)の蓼倉郷と出雲郷を領有していて、出雲路橋と蓼倉橋にその名が残っています。右岸は桜が少なく、1本だけ目立っていました。背後は松ヶ崎山。
本満寺に行くため蓼倉橋iから御蔭橋までバスに乗りました。御蔭橋のバス停から北の方、川端通は見事な桜並木になっていて、右は「ルネ下鴨東」、築1984年、7階建、196戸の分譲マンションで前に枝垂桜が見えます。
御蔭橋から下流方向、左岸は桜並木、右岸にはユキヤナギ、向うに河合橋が見えます。
御蔭通を西に行くと下鴨神社があります。楼門のヤマザクラが咲いているか分からなかってので立ち寄らず、賀茂川にかかる葵橋を渡ります。下流の橋は出町橋i。
葵橋の西詰、賀茂川の右岸は桜並木で、見えていませんが右に「上京警察署 出町交番」があります。本満寺は出町橋よりここから歩くのが少し近道になります。
本満寺を訪れたあと、寺町通を下ると幸神社の石標があります。左の建物は「市川ビル」、1階は「出町茶論」、(社)ジェロネットワーク京都のデイサービスで、健康・生きがいづくりから、健康寿命延伸を目指しているそうです。
石標の前の東西の通り(名称は分かりません)を歩きます。右は「イチイ ヒロキ」、ヴァイオリン専門店だそうです。通りの突き当りは同志社女子大学の新心館。
通りの中ほどに「幸神社(さいのかみのやしろ )」の鳥居があります。「幸」神社ではなく「幸神」の社で、この辺りは幸神町(さいのかみちょう)です。社伝によれば、歴史は古く神代の時代に始まり、飛鳥時代の天武天皇の白鳳元年(661)再興されたといいます。
平安時代の延暦年間(782-806)に桓武天皇の平安京造営の際に、都の北東の鬼門封じのために、出雲路に社殿が造営されました。神門の横に「皇城鬼門除 出雲路幸神社」という石標があります。
その社地は現在地から北東300mの賀茂川畔(出雲路橋あたり)で、かっての出雲氏一族の本拠地でした。当初は出雲路幸神と呼ばれ、出雲路の道祖神でもあったようです。(手水舎、水は飲めないそうです。)
また、当初は鬼(邪気)を塞(ふさ)ぐという意味の塞神(さいのかみ)であったのが、後に縁起のよい「幸神」に変わったといわれています。左(西)側には社務所があります。
室町時代の応仁の乱(1467-1477)では細川勝元が出雲路に陣をおき、西の山名宗全と合戦しましたが、その兵火によって社殿は焼失してしまいました。その後現在地に移転したといいます。(拝殿)
応仁の乱以前の幸神社は一町四方の社地を持っていましたが、この地に移って後に秀吉の都市改造によって縮小されて、まるで私邸の神棚のようだったといいます。
主祭神として猿田彦大神を祀り、天之御中主神、少彦名神、皇孫瓊瓊杵尊、事代主命、可美葦牙彦舅神、天照皇大御神、大國主命、天鈿女命の八神も祀っています。これらは天孫降臨や国造り、道案内などにかかわる神です。(拝殿の中に小さな本殿があります。)
天鈿女命(あめのうずめのみこと)が道案内の縁で猿田彦大神と結ばれたことから、この神社は縁結びのご利益もあるとされます。御神体の神石が隅にあります。
本殿の北東角に、鬼門除けの猿の神像が祀られています。猿は烏帽子を被り、祓いの忌串(いみぐし)を肩にかかげて、鬼門の東北を睨みつけています。この木彫りの猿は左甚五郎の作ともいわれていますが確かではありません.。
京都御所の猿ケ辻、幸神社、赤山禅院、比叡山の麓の日吉大社と、それぞれの猿が東北にほぼ一直線に並び、鬼門の方向から邪気が入るのを四重に防いでいます。
右の三天社は天照皇太神(あまてらすすめおおかみ)、健甕槌命(たけみかづちのみこと)、大国主命を、右の稲荷社は天穂日命(あめほひのみこと)、大気津姫命(おきつひめのみこと)、三穂津姫命(みほつひめのみこと)を祀ります。
右は竃神社(歳神、澳津彦命、興津姫命)、天満宮(菅原道真)、淡嶋社(少彦名大神)、春日社(天児屋根命、太玉主命)。左は厳島社(市寸島比賣命)、カッコの中は祭神です。
右は稲荷神社(五社大明神、初寄大明神、岡元大明神、幸上大明神、山田大明神)、左は金毘羅社(素戔嗚尊、天御中主尊、大己貴尊、金山彦命、猿田彦大神)です。
鳥居の中には「御石(おせき)」さんとよばれる神石があって、拝むと縁結びの御利益があとされます、ただし、霊力が強いので触れると逆に祟りがあるともいわれます。平安時代からあり、以前の御神体だそうです。
隣の小さな祠は「疫神社」で、素戔嗚尊ほか四神を祀り、厄除けの神々です。
宝永5年に火事で類焼しますが翌年再建、さらに神輿奉造、鳥居建設、東隣を社地に加えました。寛延2年(1749)積年の功績によって光栄は権律師(僧侶の高位)に勅許されました。一番奥に「猿田彦大神」の石標があります。
明治以降、社僧は廃止され、村社、公費供進社となりました。戦後は有志の協力で神社本庁に所属して現在に至っています。幸神社は小さな神社ですが、ようやくここまで再興されてきたといえます。
鳥居の正面の道を南に下って振り返ります。左は「円覚寺」。
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コメント
川辺に咲く桜は、生命感があっていいですよね。
この生命感は、いつみてもいいものです。
投稿: munixyu | 2023年3月26日 (日) 14:36
こんばんは。
りせさんも桜の標本木を持っているのですね。
古木の太い桜ですね。
標本木を持っていると楽しいですよね。
和歌山市の和歌山地方気象台の標本木は
紀三井寺にあります。
僕の標本木は近くの公園にあります。
ポチ♪ 2
投稿: ゆーしょー | 2023年3月26日 (日) 23:57