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2023年2月 8日 (水)

熊野神社 八ッ橋騒動と節分祭

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

2月3日、平安神宮の前に熊野神社の節分祭を見てきました。既に日にちがたっていますので、今日は節分祭の写真とともに、このあたりの聖護院に何軒もお店がある「八ッ橋」にまつわる騒動の顛末を紹介します。

交差点から熊野神社への横断歩道をわたるときに、神社の北隣に「本家西尾八ッ橋 熊野店」があります。八ッ橋については記事の後半をご覧ください。

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「熊野神社」は平安時代の初め弘仁2年(811)に、修験道の日円上人が国家護持のために紀州熊野大神を勧請したのに始まります。小さな境内ですが、いくつもテントが出ていて近所の方で賑わっていました。

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寛治4年(1090)白河上皇の勅願により創建された聖護院門跡には別当職が置かれ、熊野神社はその守護神となりました。平安末期には後白河法皇がしばしば熊野詣を行い、当社にも厚く信仰をよせたといわれています。

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室町時代の応仁の乱(1468)によって社殿は焼失し、その後荒廃しました。江戸時代になり寛文6年(1666)聖護院宮道寛法(どうかんほう)親王が再興し、当時の社地は鴨川まで達するほど広大なものだったそうです。

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その後、天保6年(1835)にも大修造が行わました。現在の本殿は、この時に下鴨神社の本殿を移築した代表的な流れ造りです。「流れ造り」とは、切妻造りの屋根の前面が長く延びて向拝を成している典型的な神社本殿様式だそうです。

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熊野三山の祭神を祀る本殿には、代表的な京銘菓や漬物屋さんからの奉納品が並んでいます。

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本殿にお詣りしたあと、境内の北東のテントの方にいきます。テントの前には「八ッ橋」に関する石碑と銅像があります。

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聖護院村の八ツ橋屋に生まれた西尾為治(1879~1962)は、元禄からの古法に改良を重ねて製造会社を設立、八ツ橋中興の祖と呼ばれました。左に西尾為治の銅像、右はに八ツ橋発祥の聖護院森跡を示す石標が建っています。

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西尾為治は1900年開催の仏パリ万博に八ッ橋を出品して銀賞を受賞、大正4年(1915)京都で大正天皇の即位式が行われた際には、京都駅で八ッ橋を販売して爆発的な人気を得たといわれています。

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しかし、その後西尾為治の会社は経営危機に陥り昭和5年(1930)に破産が確定、代わって同社の専務だった鈴鹿太郎氏が経営権を握りました。現在の「聖護院八ッ橋」の代表・鈴鹿且久氏の祖父です。

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戦後の昭和22年(1947)西尾為治の長男・為一氏が八ッ橋の製造販売を開始、5年後に「本家八ッ橋聖護院西尾」を設立しました。同時期に次男の為忠氏は「八ッ橋西尾為忠商店」、三男の源太郎氏(西村姓)は「本家八ッ橋」を創業しています。

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実は八ッ橋のルーツには二つの説があります。八橋検校の箏に似せたせんべい状の焼き菓子と、『伊勢物語』第9段かきつばたの舞台・三河の国の八橋にかけて、8枚の橋板を模したせんべい状の焼き菓子です。

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現在の聖護院八ッ橋は八橋検校の箏、西尾為治の子息たちの会社は三河の国の八橋がルーツだとして、どちらも元禄2年(1689)の創業をうたっています。交差点の北東角に「聖護院八ッ橋 熊野店」があります。

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現在、京都の八ッ橋業者の「京都八ッ橋商工業協同組合」には14社が加盟、「検校の箏説」は聖護院八ッ橋と「井筒八ッ橋」を含めて全6社、本家八ッ橋西尾など西尾為治の子息の会社らが「三河の橋説」を唱えています。

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ここで、「井筒八ッ橋本舗」は南座北の北座ビルにあります。文化2年(1805)初代津田佐兵衞が祇園の茶店で八橋検校をしのんだ琴姿の堅焼きせんべいを売ったのが京名物となりました。すなわち、井筒は元禄より100年以上後の創業としています。

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2018年「井筒八ッ橋本舗」が「聖護院八ッ橋総本店」に対して「創業元禄2年」をうたうのは事実と異なり、不正競争防止法に違反しているなどとして表示の差し止めと損害賠償600万円を求めた民事訴訟を起こしました。「本家西尾八ッ橋 熊野店」

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実はその前年、聖護院八ッ橋以外の「検校の箏説」の5社が「証拠はないのに創業を元禄2年とし、八ッ橋を最初に創作し、販売し始めたのが聖護院八ッ橋であるかのような表示をしている」として、当該表示をやめるよう民事調停の申し立てをしていました。

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これに対して聖護院側は、証拠を提示して反論したのではなく、申し立ての内容が民事調停の対象に該当しない、という理由で調停打ち切りを主張。調停は不成立になっていました。「本家八ッ橋西尾」

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そして単独での提訴に踏み切った当主は94歳の6代目・津田佐兵衛氏です。かねてから聖護院の行動を問題視して「自分の目の黒いうちに何とか決着をつけておきたいという思いからの提訴」といいます。向かいの「聖護院八ッ橋総本店」

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訴状のなかで、毎年6月12日に実施される八橋検校をしのぶ法要についても、両社は共に第1回は昭和24年(1949)に常光院で開催された事実を認めています。八橋検校の菩提寺の金戒光明寺塔頭「常光院」

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井筒は「後年は弊社単独で実施するようになったが、第1回は14業者が加盟する組合主催で実施しており、聖護院はそこに参加していたにすぎない」と、聖護院の主催を否定しています。金戒光明寺文殊塔の裏にある「八橋検校の墓」

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さらに、「ウチは検校の箏が起源ではないとして翌年からは参加しなくなったのに、その後検校起源だといい出して、法然院で法要をやるようになった」と主張しています。哲学の道近くにある「法然院」の山門。

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訴状に対し、聖護院側は証拠をもって反論するのではなく、内容が民事訴訟にそぐわないと主張。2020年6月、京都地裁は「歴史の古さが消費者の行動を左右する事情とはいえない」として原告の訴えを退けました(偶然、法然院での「八ッ橋忌」に出会いました)。

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井筒は同じ元禄2年創業としている西尾為治の子息の会社を訴えておらず、自分の会社(後の創業)の方が元祖であるという主張でないことは明らかです。判決で八ツ橋の起源について明らかになると期待したのですが、裁判所が判断するのは難しいのでしょう。

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上で述べた破産した西尾為治の会社の経緯や、井筒の自分の企業利益のための提訴でないことを知っている人々には、聖護院八ッ橋が調停の段階で業界全体がプラスとなるように話し合いに応じるべきだったという人が多いと思います。

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平成30年の京都市の調査では観光客の4割が八ツ橋を購入するとされましたが、新型コロナ禍の観光客の激減で業界は苦戦を強いられています。下は少し離れた聖護院東町にある西尾為治次男の「八ッ橋西尾為忠商店」、最後は聖護院八ッ橋のウインドウ。

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コメント

こんばんは。
八つ橋騒動というのがあったのですね。
初めて知りました。
先日八坂神社へお参りに行った帰り、
久しぶりに四条通り商店街で八つ橋を買いました。
はるか昔、京都のみやげと言えば八つ橋でしたね。
この間買った八つ橋は、当時の八つ橋に比べ
甘味が増しているように思いました。
昔の八つ橋を食べたかったのです。
ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2023年2月 9日 (木) 02:05

★ゆーしょーさん こんばんは♪
最近は固く焼いた八ッ橋よりも、生八ッ橋の方が人気があるようです。アンコやいろいろ甘い物を包んでいます。確かに、昔の素朴な八ッ橋が懐かしいですね。

投稿: りせ | 2023年2月12日 (日) 00:54

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