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2023年1月17日 (火)

富小路通を歩く 五条から六条へ

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※写真は全てクリックで拡大します。

先日、京の冬の旅で初公開された上徳寺を訪れたあと、富小路通を歩きました。五条通まで戻って、富小路通との交差点の南東に「本覚寺」があります。山号を佛性山(ぶっしょうざん)という浄土宗の寺院で、洛陽四十八願所地蔵めぐり(京都四十八願寺)の第48番札所です。

山門の左に「此寺に八文字屋自笑翁碑あり」という石柱が立っています。八文字屋自笑は江戸時代中期、八文字屋本として知られる浮世草子や、西川祐信の絵本類などを刊行した出版元です。

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本覚寺は、鎌倉時代の1222年、鎌倉幕府3代将軍・源実朝の後室・坊門信子が西八条の遍照心院(へんじょうしんいん)内に創建したといわれています。寺号は信子の法名(本覚)にちなんでいます。

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信子は、幕府と朝廷の融和のため13歳で源実朝の御台所として鎌倉に嫁ぎ、27歳のとき夫・源実朝が没すると、その菩提を弔うため本覚寺を創建、翌年出家して西八条禅尼あるいは本覚尼と呼ばれました。

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1223年に梅小路堀川に移転、室町時代の応仁の乱(1467-1477)で荒廃しましたが、1503年浄土僧・玉翁(ぎょくおう)により中興されました。 本堂には本尊・阿弥陀如来、本覚尼像、源融像などが安置されています。  

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1501には管領・細川政元(1466-1507)が玉翁と日蓮宗本国寺僧とを宗論させたという記録があり、帰依した細川政元らによって高辻烏丸に土地が寄進されました。その後末寺14を数える本山になりました。

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安土桃山時代の1591年、豊臣秀吉の命により、4塔頭(道知院、宗受院、玄昌院、三玄院)とともに現在地に移りました。江戸時代の寛文年間(1661-1673)には洛陽四十八願所の霊場のひとつになりました。

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富小路通の南には京都タワーが見えます。平安時代の初め、このあたりに「源融(みなもとのとおる)」の別荘「六条河原院」がありました。源融は源氏物語の光源氏のモデルといわれています。

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源融は陸奥国塩釜の景色を再現して、難波江の塩水を運んで塩を焼く煙を眺めて、風情を楽しんだといわれています。上徳寺の山号や地名の「下京区本塩竈町」に当時の塩釜の名が残っています。下は「平安京オーバーレイマップ」

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上徳寺の手前(北隣)に「徳林院」があります。山号を寶樹山(ほうじゅさん)という浄土宗の寺院です。数年前に「京都浄土宗寺院・特別大公開」で公開されましたが、由緒の説明はなかったそうです。

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本堂には室町時代初期の作の本尊・阿弥陀如来立像と地蔵菩薩立像が祀られています。浄土宗による寺院紹介では「年に1回公門の時のみ御朱印をしています」とありますが、公門の時がいつか分かりません。

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「新善光寺」 信州の善光寺を創建した本田善光の子・本田善助が創建した浄土宗の寺院で、来迎堂とも呼ばれます。路地の入口には「信濃善光寺分身如来」の石碑があります。

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本尊の阿弥陀仏は信州の善光寺と同一体といわれています。応仁の乱の後各地を転々として、天正19年(1591)秀吉により現在地に移転しました。秀吉により、寺町通や寺之内通と同様に五条以南にも寺が移され、このあたりは「下寺町」とも呼ばれます。

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「極楽寺」 天文12年(1543)一蓮社笈誉が四条坊門東洞院に創建した浄土宗の寺院で、天正18年(1590)秀吉により現在地に移りました。住吉の井鼻から遷された極楽寺地蔵は京洛四八願所地蔵尊の第46番、手引地蔵(安産地蔵)とも呼ばれます。

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江戸時代中期の1788年、天明の大火により焼失、幕末の1864年には、禁門の変により焼失しました。火災後、塔頭の正明院が廃寺となりました。「本堂」には本尊の阿弥陀如来を祀ります。

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先ほどの続きで、895年に源融が没すると子・昇が六条河原院を相続し、昇は宇多上皇に献上して仙洞御所(東六条院)となりました。このとき、幾つかの書物に源融の幽霊が出たことが記されています。「鎮守社」

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『今昔物語集』には、宇多上皇が滞在中に融の霊が現れ「ここは私の家です」といったので、上皇が「お前の息子から貰ったのだ」と一喝すると、それ以降、融の霊は現れなくなったといいます。(下は極楽寺の寺務所)

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『江談抄』には宇多上皇が京極御息所と河原院で夜を過ごしていると、融の霊が現われ「御息所がほしい」といいました。上皇は断りましたが、御息所は死んだようになっています。上皇は急ぎ宮中に戻り、僧に祈祷させたところ、御息所は生き返ったといいます。

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「白毫寺」 通称を太子堂といい律宗の寺院です。忍性律師が開基でもとは知恩院近くにありましたが、慶長8年(1603)知恩院の再建拡大のときにこの地に移転しました。本尊は聖徳太子自作と伝えられる聖徳太子立像。

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後に屋敷を与えられた融の三男・仁康(にんこう)は、丈六の釈迦仏を造立して河原院という寺を開きました。上の平安京オーバーレイマップで、東にある「河原院」がその区域です。1000年に仁康が源融の六条別邸(現・上京区)に祇陀林寺(ぎだりんじ)を創建して本尊が遷され、その後河原院は数度の火災で荒廃、廃寺となりました。

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「蓮光寺」 明応元年(1492)真盛上人が新町高辻に草庵・萱堂を結んだことがはじまりで当初は天台宗でした。天正19年(1591)秀吉によって現在地に移され、浄土宗に改められたといいます。

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ここには、大阪夏の陣で敗れ、六条河原で処刑された長宗我部盛親の墓があります。盛親は一時寺子屋の師匠をしていて当寺の住職と親交があった縁といわれています。

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「元六條御所 長講堂」 後白河法皇(1127-92)は台頭する平氏と源氏の間を巧みに生き、嘉応元年(1169)仏門に入り法皇となって以降、院御所「六条殿」内に持仏堂として長講堂を創建しました。

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六条殿は、当初西洞院大路と油小路の間にありました。法皇は、丈六金銅の釈迦、阿弥陀、大日の三尊を祀るための仏堂を建立するなど、熱心に造寺、造仏を行ないました。

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六条殿は文治四年(1188)に焼失、同年源頼朝によって再建されました、法皇は、鎌倉幕府が成立した(頼朝が征夷大将軍に任命された)建久3年(1192)六条殿でその波乱の生涯を閉じました。本堂には本尊の丈六阿弥陀三尊像(重文)を祀ります。

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その後長講堂も焼失・移転を繰り返し、最後に秀吉によりこの地に移転しました。奥の建物の前には「後白河法皇御影殿」という石標が立っていて、後白河法皇坐像(重文)および肖像画「後白河法皇御真影」が安置されています。

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コメント

幽霊とかの話は、結構好きな方ですが、
できるだけ会いたくないものですよね。
逸話や伝説ものは、遭わずに楽しみたいと思います。

投稿: munixyu | 2023年1月17日 (火) 15:38

こんばんは。
卯の初春、穏やかな一年になってほしいです。
ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2023年1月18日 (水) 02:18

★munixyuさん こんばんは♪
源融の幽霊話は怖すぎて紹介できないのもあります。いずれも自分の土地に執着したことが幽霊となって出てきた理由になっています。

投稿: りせ | 2023年1月21日 (土) 00:12

★ゆーしょーさん こんばんは♪
今年こそはと思って3年目ですね。じっと耐えるしかないのかも知れません。

投稿: りせ | 2023年1月21日 (土) 00:14

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