二尊院 紅葉の参道と境内
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昨日の記事に続いて、藤原定家の小倉山荘(時雨亭)の伝承がある二尊院を訪れました。
「二尊院」は、正式には小倉山二尊教院華台寺(けだいじ)という天台宗の寺院です。二尊院の名は、本尊の「釈迦如来」と「阿弥陀如来」の二つの如来像に由来します。
平安時代初期の承和年間(834-848)に嵯峨天皇の勅願により、慈覚大師・円仁が華台寺を建立したのが始まりです。(山門からの参道は「紅葉の馬場」とも呼ばれています。)
「西行法師庵の跡」の石標、看板には「我が物と秋の梢を思ふかな小倉の里に家居せしより」とあります。西行は鳥羽上皇に仕える武士でしたが、22歳のとき妻子を捨てて出家し、小倉山麓のこの山門近くに庵を営んだそうです。
参道の左右で紅葉の色合いが違うのは、日当たりの差だといわれます。楓の葉は一定の寒さが続くと緑の色素が分解して黄色になり、その後の日照時間によって次第に赤くなるのだそうです。突き当りに石段があり、境内は一段高いところにあります。
石段の手前に句碑があり、丸山海道「春深し佛の指の置きどころ」、丸山佳子「萩咲かす二尊に触れて来し風に」。海道は京都出身の俳人で俳誌「京鹿子」を創刊、父は鈴鹿野風呂。妻・佳子は名誉顧問。二人の句碑は岩倉具視旧宅や円山公園にもあります。
鎌倉時代には、法然の弟子・湛空が再興し、土御門天皇、後嵯峨天皇にも戒を授け、公家の二条家、鷹司家、三条家の菩提寺にもなりました。さらに、後深草、亀山、後宇多、伏見天皇らの帰依を受けて隆盛を極めました。下の唐門(勅使門)は1988年の再建。
この頃から、天台、真言、律、浄土宗4宗の宗派を兼ねる(兼学)寺院になりました。「嘉禄の法難」(1227年)では、法然の死後も専修念仏が広がり続けるのを恐れた比叡山衆徒による法然御廟破却を避けて、門弟により法然の遺骸が二尊院に運び込まれました。
南北朝時代(1333-1392)に焼失し、足利義教によって再建。室町時代の応仁の乱(1467-1477)でも焼失、その後荒廃しました。本堂は1510年に三條西実隆により再建、数年前に改修されました(京都市指定文化財)。
拝観受付を過ぎて本堂に上がりました。本堂の左(南)に小さな庭園があり、その向うに茶室があります。
茶室「御園(みその)亭」 江戸時代の後水尾天皇の第5皇女・賀子(がし)内親王の「御化粧の間」が二条家に移築され、その後1697年にこの地に再移築されました。1間の床の間、1間の違棚があり、違棚天袋に狩野永徳筆の腰張りがあるそうです。
本堂の裏の山裾に最近造られた「六道六地蔵の庭」があります。六道とは、迷いあるものが輪廻する6種類の苦しみに満ちた世界のことで、天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道を指します。下は「人間能化大清浄地蔵菩薩」。
六道の世界を輪廻転生しながら彷徨い続ける人々を救済し、極楽浄土へ導いてくれるのが地蔵菩薩です。地蔵菩薩が六道を行脚する姿を、それぞれ六体の尊像で表したのが六地蔵です。手前は「畜生能化大光明地蔵菩薩」、奥は「天道能化大堅固地蔵菩薩」。
戦国時代の永正年間(1504-1521)に僧・広明恵教が三条西実隆父子の協力により再興し、本堂、唐門が再建されました。下は本堂の右(北)にある「位牌堂」。
安土桃山時代から江戸時代にかけて、豊臣、徳川家や角倉了以の寄進が続き、江戸時代末までは御所の仏事を司るなど皇室や公家との密接な関係も続きました。(本堂には「釈迦如来立像」と「阿弥陀如来立像」を祀り、ともに鎌倉時代作の重要文化財。)
「本堂前庭」 竜神遊行の庭と呼ばれ、かつて当寺和尚の説法により、竜女が昇天したことから名づけられといわれます。円形の低い垣があり、内側に白砂、苔、植栽があります。垣は竜の腹を表すとか。
「弁財天堂」 かつて境内の東にあった池に鬼女が住みつき、夜な夜な境内を歩いていたといいます。その鬼女が祀られているそうです。
「扇塚」 上方舞吉村流4世・吉村雄輝の人間国宝認定を記念して、昭和47年に建立された吉村流の扇塚です。
この石段の上には、正面の法然上人廟をはじめ、江戸時代の儒学者・伊藤仁斎や豪商・角倉了以、二条家、鷹司家、三条家、三条西家などの墓があります。また、境内北にも墓地があり、映画俳優・坂東妻三郎をはじめとする田村家の墓もあります。
法然は唐の浄土宗の祖・善導の称名念仏を知り、天台宗から浄土宗に傾き、比叡山を下りて一時二尊院に住みました。その際に寺を再興したともいわれています。
法然上人廟から山道をかなり南(左)に行くと藤原定家の小倉山荘(時雨亭)跡があります。これで、小倉山荘跡の伝承がある3寺院を記事にしました。最近、その所在地についての新しい資料や情報が見つかったので、調べているところです。
鐘楼は安土桃山時代から江戸時代にかけての慶長年間(1596-1615)に建立され、梵鐘(しあわせの鐘)は1994年に再鋳造されたものです。自由に撞くことができたのですが、この日は損傷のため押打禁止と書いてありました。
「角倉了以」の銅像 安土桃山時代の豪商でこの地の出身。土倉経営(金融業・質屋)を中心に秀吉の朱印船にも加わり莫大 な富を得て、大堰川、高瀬川、富士川、天龍川の開削を行いました。二尊院の道空に師事し仏道にも励み、晩年は飛雲閣に隠棲しました。
右は「小倉あん発祥の地」の石碑。左は橋本清氏の作品「真」で、輪は時間の流れを表し、ねじれているのはこの世に完全なものはないことを象徴しているのだそうです。
本堂前の唐門から塀がこのあたりまで続いていますが、北側は塀がありません。
「八社宮」(京都市指定文化財)、室町時代末期に鬼門封じのために建立され、右から松尾神社、愛宕神社、石清水神社、伊勢皇大神宮、熱田神宮、日吉神社、八坂神社、北野神社だそうです。
明治初年(1868)以降、二尊院は天台宗山門派(延暦寺)に属しました。(境内の北端に石仏群があり、六角形のお堂の中に珍しい半跏の石仏が安置されています。)
紅葉の馬場を山門に向かって
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