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2022年12月 7日 (水)

鷹峯・源光庵と〇□の謎

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

先日の記事の鷹峰の常照寺を出て源光庵を訪れました。上の写真は源光庵でおなじみの「悟りの窓」と「迷いの窓」です。以下では、過去の記事を再編集して、禅宗における二つの窓が象徴する〇と□、あるいは〇△□について少し詳しく紹介します。

「源光庵」は、山号を鷹峰山、正式名称を鷹峰山寶樹林源光庵という曹洞宗の寺院で、「復古禅林」ともよばれています。*令和元年(2019)から令和3年(2021)にかけて庫裏改修工事のため拝観休止となっていましたが、現在は再開されています。

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室町時代の貞和2年(1346)大徳寺2世・徹翁義享(てつとうぎこう)(1295-1369)が隠居所として開創したのが始まりで、当初は「復古堂」とよばれ臨済宗に属しました。下の総門には創建時の「源光普照」の扁額がかかっています。

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江戸時代の元禄7年(1694)、加賀・大乗寺の卍山道白(まんざんどうはく)禅師(1636-1715)により再興され、曹洞宗に改められました。総門はその時期に建立され、2015年に道白禅師400回忌を記念して再建されました。下は山門。

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山門は二層造りで、扁額の「復古禅林」は、当時の曹洞宗の慣習を批判した道白禅師に対して、清人薫愛山師から送られたものです。

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日本曹洞宗では、道元禅師の開宗から200年を過ぎたころ、嗣法(しほう)の制度を始めとして本来の規律が失われ、様々な弊害が起きていたといわれています。嗣法とは禅宗において弟子が師の法を継ぐことです。(山門の手前に「鐘楼」があります。)

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当時の曹洞宗では師僧から弟子に面授される法統(人法)よりも、寺院の住職を継ぐことによって伝えられる法統(伽藍法)が支配的となり、様々な混乱と弊害を生じていました。(山門を入ると正面に本堂、右隣に書院、その手前に庫裏があります。)

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伽藍法を簡単に言えば、伽藍に法系が付随していて、その建物を相続することにより師の教えを受け継いだことになるというものです。(本堂の建物は、元禄7年に寺が再興された際に金沢の富豪・中田静家が寄進したものとされます。)

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道白禅師は、嗣法は道元が尊重した人法であるべきだとする宗統復古運動に尽力しました。拝観受付がある庫裏の前から、向うは享保4年(1719)に建立された「開山堂」。庫裡に拝観受付があって、最初に書院に入ります。*新型コロナウィルス対策として、堂内に入る際に靴を入れるビニール袋の配布を一時休止、ご自身の靴袋のご持参をお願いします。

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道白禅師らの改革は根強い抵抗にあい、40年にわたって運動が続けられました。禅師が自らを「復古老人」と呼んでいたことからも当時の状況が想像できます。(拝観受付を過ぎるとまず書院に上がります。)

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源光庵を再興した2年後には、60歳でしたが梅峰竺信らと江戸に赴き宗門悪弊を改めるよう僧録司に訴えました。僧録司(そうろくし)は寺院の訴訟や僧侶の任免などを管轄する最高位の役職です。(書院の庭は北山を借景とする枯山水庭園です。)

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道白禅師らの運動は寺社奉行を動かし、永平寺法度・總持寺法度の制定によって改革は達成されました。1703年道白禅師は源光庵に帰りましたが、既に67歳になっていました。

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起伏のある庭には様々な植栽があり、大小の石や石灯籠、石塔?などが配されています。

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隣の本堂が見えます。この右手に□と〇の庭があります。

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書院から本堂への渡り廊下の途中にある花頭窓。

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源光庵では、開祖・道元禅師の教えに従い、「迷いの窓」は「人間の生涯」を象徴して、生老病死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦(ぐふとくく)、五蘊盛苦(ごうんじょうく)の四苦八苦を表しているとされます。

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「悟りの窓」は宇宙を表し、「禅と円通」の心を象徴して悟りの境地を教えているとされます。まず迷いの窓の前で自問自答し、次に悟りの窓の前で自己を見つめ直すと、純粋な本来の自分に戻ることができるそうです。

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江戸時代の臨済宗古月派の禅僧・仙厓義梵(せんがいぎぼん)は寛延3年(1750)美濃国に生まれ、栄西が建立した臨済宗妙心寺派の「聖福寺」の住職を20年間務める傍ら、 道元禅師の教えを図形で表現しようとして多くの禅画を残しています。

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気骨の人で悪政の家老を狂歌で風刺して追放されたり、妙心寺の管長に推薦されても固辞して聖福寺を離れず、上述の源光庵中興の祖・道白禅師と通じるものがあります。下は出光美術館が所蔵する仙厓の禅画「〇△▢」です。

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この墨絵に多くの解釈があるそうですが、禅宗では〇は円相(周円融通の略)といい、智慧によって悟られた絶対の真理、真理を悟る智慧の実践(悟りの境地)とされています。斜めから見ると二つの窓に紅葉が見えます(TOPの写真は加工しています)。

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△は坐相ともいわれ、足を組んで座禅する姿、悟りを得ようと修行する段階を表しているとされます。(廊下の天井は伏見城の遺構で、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの前哨戦で徳川家家臣・鳥居元忠らが石田三成軍に破れ自刃したときの床板です。)

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▢は「囚われた心」で、通常の社会の中ではこのように四角張った常識に囚われているが、半分にすれば△になることはできます。しかし〇になるには大変が努力が必要です。(本堂の西にも小さな庭があります。)

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上の禅画「〇△▢」は、墨の重なり具合から▢△〇の順に書いていることが分かるそうです。すなわち、常識に囚われ、悩みが多い人間が、禅宗の教えに従って修行をして、悟りの境地に至る過程を表しているとされます。

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下は建仁寺で見た掛け軸で、作者の建仁泰巌とは建仁寺派管長の小堀泰巌老師のことです。仙厓義梵の〇△▢と同様に、△と〇が重なっていることに気が付きます。すなわち、現在悟りを目指して修行の身であることを示しています。

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最後に、宗門改革を成し遂げ源光庵に戻ってきた道白禅師について。道白禅師の高名をきいた霊元法皇が、問法のため招請しましたが病のために辞退し、惜しんだ法皇は手許品の綿を下賜しました。

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正徳5年(1715)道白禅師は遷化、享年80。開山堂には禅師の木像が安置され、その下に遺骨が納められています。源光庵では12月9-11日(午前10時30分より)、12日(午後12時30分より)本堂での法要のため1時間程度拝観休止となるそうです。

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