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2022年12月 6日 (火)

鷹峰・常照寺と吉野大夫

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

今まで各地の紅葉が見ごろの写真を紹介してきましたが、今日は鷹峯・常照寺にしました。ここは、地面に落葉が降り積もってちょっと晩秋の雰囲気もします。あわせてゆかりのある吉野太夫について少し詳しく紹介します。

上は「吉野門」とよばれ、島原の吉野太夫の寄進により建立され、1917年に再建されました。「常照寺」は山号を寂光山という日蓮宗総本山身延山久遠寺の直末です。直末(じきまつ)とは、本山直轄の末寺のことで、末寺では最上位に位置します。

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「吉野太夫」は京都の太夫(芸妓)の名跡です。山門を寄進したのは2代目で、その後10代まで続いたそうです。初代の吉野太夫は安土桃山時代の人で、本阿弥光悦などの文化人と交流があったとされます。以下の吉野太夫は2代目のことです。

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「帯塚」は昭和44年(1969)に在京の著名人によ って建立、作庭は中根金作で苔により鷹峰三山を表現したそうです。5月の帯祭では、帯供養と帯風俗行列が催されます。左に昭和54年に建立された時代風俗研究の権威「吉川観方氏小直衣の像」があります。

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「宝蔵」 左の石碑には日蓮聖人が四条金吾への返書で書いた言葉「蔵の財よりも身の財すぐれたり、身の財より心の財第一なり」、宝蔵の横にあるのがちょっと皮肉です。

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元和元年(1615)本阿弥光悦は徳川家康から鷹峰の地を拝領、一門とその家職につながる工匠や商人を引連れて移住してきました。翌年、本阿弥光悦と光瑳の親子は、ここに「法華の鎮所」を建立し、鷹峰で布教していた寂照院日乾上人を開山に招きました。

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日乾上人は鎮所を「寂光山常照寺」と号し、僧侶の学問所「鷹峰檀林」を創設したので、当時は「常照講寺」とも呼ばれました。「本堂」はかっての講堂を改築したもので、本尊として十界大曼茶羅を安置しています。

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鷹峰壇林は山城六壇林の一つで、数万坪の境内には、講堂、衆妙堂、玄義寮、妙見堂など30余棟の堂宇が並び、数百人の学僧が集い、鷹峰一帯の中心的なアカデミーともいえる場所でした。(本堂の横の紅葉は見事でした。)

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檀林の学僧は13年以上も入寮して、学業をはじめとして様々な教育を受けました。檀林は明治5年(1873)の学制発布まで続きます。(本堂を拝観したあと、その左手から境内に入ります。)

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お茶席が出ていて、奥の「鬼子母尊神堂」には子育て、子授けの守護神が祀られています。

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「常冨(つねみ)大菩薩殿」 江戸時代の享保年間に、学寮でしばしば不思議なことがおこりました。常人と違うと噂されていた智湧という学僧の部屋を、学頭の日善が覗くと、白狐が一心に書を読んでいたそうです。

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姿を見られた智湧は寺を去り、摂津の妙見山で修行を行って常富大菩薩となったとされます。智湧が去る際に壇林首座宛に書き残した道切証文と起請文の末文には爪の印があり、霊宝として寺に保存されているそうです。

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常冨大菩薩殿の隣にある「妙法龍神社」は雨を司る龍神を祀ります。

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妙法龍神社の裏のくぼ地に白馬池への門があります。かって寺の北山にあり、霊池とされていた池を、平成21年に復興したものです。

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その昔、その池に仙人が住み、白馬で往来したという伝説から「白馬池」と呼ばれるようになったそうです。かなり深い谷に下りていきます。

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池の周囲には桜とモミジが植えられていますが、訪れる方はほとんどなく穴場となっています。

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池のほとりには、「白馬観音」が祀られています。白馬に乗り、池を往来していたという仙人を白馬観音として法華勧請した像で、江里敏明氏の作です。法華勧請とは法華宗の守護神として祀ることだそうです。

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吉野太夫(1606-1643) は京都の方広寺大仏殿近くに生まれ、実父はもと西国の武士であったともいわれています。幼少のころに禿(かむろ、遊女の世話をする少女)として林家に抱えられ、禿名は林弥(りんや)でした。(もう一度境内に上りました。)

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14歳の時、故あって六条三筋町(後に島原に移転)芸妓となりました。名妓といわれ、最上位にあっただけではなく教養が高く、和歌、連歌、俳諧に優れていて、琴、琵琶、笙が巧みでした。(一段高い場所にある茶室の「聚楽亭」)

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さらに書道、茶道、香道、華道、貝覆い、囲碁、双六を極めたといい、上流階級の社交場の花とうたわれました。吉野大夫を見初めた灰屋紹益は豪商で文化人でもあり、後の関白、近衛信尋(のぶひろ)と争い太夫を身請けして妻としました。紹益22歳、吉野太夫26歳でした。こちらは茶室「遺芳庵」。

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紹益の父は本阿弥光悦の甥・光益、死別した最初の妻は光悦の娘でした。灰屋は紺染めに用いる灰を扱って巨万の富を築いた屋号です。紹益はその後を継ぐべく養子となりましたが風雅の道を好み、井原西鶴の『好色一代男』の主人公・世之介のモデルともいわれました。

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上は「吉野窓」、吉野太夫が好んだ円窓で下の部分が直線に切られているのは、まだ悟りに至らない不完全な円を表しているとされます。吉野太夫が自らを戒めて円を欠いたともいいます。

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紹益は人気の吉野大夫を妻に娶った嬉しさを詠んで「ここでさへ さぞな吉野の 花ざかり」。当初、父の紹由は遊里の女を身請けした紹益に愛想をつかして勘当しましたが、その後吉野太夫の人となりを知って紹益の勘当を許したそうです。

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しかしながら、吉野大夫は寛永20年(1643)38歳の若さで亡くなり、縁のあるこの寺に葬られました(上の墓)。小さな墓地の中央に「開山堂」があり、開山・日乾上人の五輪塔が祀られています。 ケヤキの扉には珍しい形の五七の桐か彫刻されています。

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「吉野太夫と紹益の比翼塚」 比翼塚とは、愛し合って死んだ男女を一緒に葬った塚のことだそうです。右の歌碑は紹益が吉野大夫を葬ったときに詠んだ歌「都をば 花なき里となしにけり 吉野を死出の 山にうつして」。塚と歌碑は昭和46年に歌舞伎俳優の片岡仁左衛門丈らの建立です。

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昨年は中止になりましたが、今年の4月10日(日)に「吉野太夫追善花供養」が行われました。新型コロナウイルス感染拡大防止のため一般の方の参列は中止、関係者のみで献茶法要とお琴の奉納演奏を行ったそうです。

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上と下の写真はコロナ以前の花供養で、常照寺のHPからの転載です。上は鷹峯街道での太夫道中で、大勢の人が待ち構えています。下は奉納舞と野点席です。

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吉野門に戻ってきました。

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この年の紅葉は例年になく色づきが鮮やかでした。

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