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2022年12月 4日 (日)

常寂光寺 紅葉の境内

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

先日、藤原定家の山荘跡とされる厭離庵を記事にしましたが、常寂光寺にも同じ伝承があります。この日は山門だけ写真に撮って素通りするつもりでしたが、紅葉があまりに綺麗なので立ち寄ることにしました。山門は江戸時代後期の改築。

「常寂光寺」は、山号を小倉山という日蓮宗の寺で、花の寺とも呼ばれます。安土桃山時代の文禄5年(1596)、究竟院日禛(くきょういんにっしん)上人が、隠棲地として角倉家から小倉山の土地の寄進されました。

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慶長年間(1596~1615)に2世日韶(にっしょう)上人が小早川秀秋の助力を得て、桃山城客殿をこの地に移築して本堂としたのが常寂光寺の始まりとされます。「仁王門」

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「仁王門」は元和2年(1616) 大本山本圀寺客殿の南門を移築したものです。仁王門をくぐると、正面の石段は上り専用になっていて、右に下りの緩やかな坂道があります。

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仁王門の横に百人一首の歌碑があります。貞信公「小倉山 峰のもみじ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ」 宇多上皇の行幸にお供をしていて、子の醍醐天皇にも紅葉を見せてやりたいという上皇の心を詠んだ歌です。

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正面の石段の上から、仁王門の上に市内が見えてきます。

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「本堂」江戸時代の慶長年間(1596-1614)に伏見城客殿の一部を2世通明院日韶上人が移転、修造したものといわれます。数年前に大規模な修復工事が行われ、本尊として十界大曼荼羅を安置しています。

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本堂の前にある句碑「落葉ふんで 道新しく ひらけたり」 作者の高桑義生(1894-1981)は俳句誌「嵯峨野」を主宰し、「鳴門秘帖」や「無法松の一生」などの映画の脚本家でもありました。

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もう終わってしまいましたが、常寂光寺では11月17日~11月30日の期間、秋の特別拝観がありました。初めて本堂と書院(本堂の右)の内部、40年ぶりに寺宝の小督局所持「車琴」や藤原定家の念持佛「釈迦佛」が公開されました。「書院」から中庭の眺め

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本堂の左に行くと妙見堂があります。江戸時代の慶長年間 (1596-1610)、保津川洪水の際に上流から流れ着いた神像を祀ったといわれ、能勢妙見の分身という妙見菩薩が安置されています。現在の妙見堂は26世日選上人の時の建立。

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妙見菩薩は角倉町の檀家の船頭が拾い揚げ、集会所に安置していたそうで、享和年間(1801-1803)の22世日報上人の時に常寂光寺境内に遷されました。(妙見堂の前から市内が見渡せませす。)

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この地は御所の西に当たることから、京都十二支の酉の妙見菩薩として、昭和(1925-1989)初期まで関西一円よりの参拝者で賑わったそうです。本堂の裏にはまわると本坊庭園があり、向うに見えるのが庫裏(本坊)。

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庭や池の水面は紅葉の落葉で覆われ、池の底にも落葉が積もっていました。

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妙見堂の裏に竹林があり、数年前に道が整備されました。この日初めて歩くと、道端に石仏が点在して境内とは別世界の静かな竹林の道でした。

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ところで、貴族の藤原定家は若い時は神経質で過度に激しやすく、事件を起こして処分されることもありました。しかし、九條家に家司として使え、昇進するにつれて歌の才能が認められるようになりました。竹林の中にも椿や紅葉がありました。

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その頃、後鳥羽上皇が和歌に対して興味を持つようになり、歌会に出席するうちに定家の才能が認められ新古今和歌集の編纂を任されました。(竹林の道はいつもの登り道に合流し、展望台を目指します。)

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「歌仙祠」 寺の創建以前からあった小さな祠を開山時に山上へ移転、明治23年(1890)に改築しました。扁額は富岡鉄斎の筆で、祠内に藤原定家、家隆の座像を祀っています。この左に、

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定家が小倉百人一首の編纂をおこなったとされる山荘「時雨亭跡」。麓の厭離庵も時雨亭跡とされますが、北隣の二尊院にもある時雨亭跡と近いので、このあたりに時雨亭があった可能性が高いと思われます。

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見晴らし台から、比叡山から大文字山にかけての東山が眺められます。

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比叡山の前の衣笠山の麓の台地に仁和寺の五重塔が見えます。

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東を見ると、左の山の上に青蓮院の青龍殿、正面は大谷祖廟、右に霊山観音、右端に霊山歴史館が見えます。

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見晴らし台から別の道を通って下りると、多宝塔を見下ろす場所があります。多宝塔へお参りする石段はもっと下の道にあります。

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嘉禎元年(1235)藤原定家に宇都宮頼綱から嵯峨野の山荘の障子に貼る色紙に古来の歌人の和歌を1首ずつ揮毫して欲しいとの要望がありました。「開山堂」は平成16年(2004)に建立、日禛上人座像(江戸初期)を祀ります。

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開山堂の奥は小さな墓地になっていて、角倉家歴代の供養塔があります。今回写真を拡大して卒塔婆から初めて供養塔と分かりました。そばに中世史学者・林屋辰三郎の撰文の碑があります。

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「多宝塔」 江戸時代初期の元和6年(1620)辻藤兵衛の寄進により建立され、釈迦如来、多宝如来の二尊を祀ります。辻藤兵衛は京都町衆(呉服商)で反骨の僧といわれる日奥上人の実家です。

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小倉百人一首は、勅撰集と異なり様々な忖度をする必要がなく、定家の好みの和歌を自由に選ぶことができました。そのため、恋(46)と秋(15)の歌が多くを占めているといわれます。「鐘楼」

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下りの道は仁王門の横に出ます。

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山門の横から出口に行く途中に「藤原定家卿山荘址」という石碑があります。

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出口に来ました。拝観入り口で申し込んだ御朱印はこちらで受け取ります。

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拝観出口を出たところは車参道になっていて、永代納骨位牌堂「園林堂」が建設中でした。この右手に庭園も造営中で、来年4月に完成予定だそうです。

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「塵劫記」は寛永4年(1627)に吉田光由(みつよし1598-1673)によって書かれた数学書(算術書)で、当時の日常生活に必要な算術を網羅したといわれます。光由は角倉家の一員で刊行350年を記念して建立されました。

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コメント

こんにちは、お久しぶりです。
憶えていらっしゃいますか。コメントさせて頂くのは10年ぶりぐらいです。
コロナ渦になってから京都にはしばらく行ってませんでしたが、先月11月16日に久しぶりに京都嵐山に行って来ました。
行ったお寺はこの常寂光寺と二尊院と祇王寺です。僕が行った時はまだ所々青葉が残っていまして、あと一週間ぐらいずらしていれば…と、ちょっと悔しい思いでした。
特別拝観の一日前でしたし。
りせさんのこの記事の写真ですとけっこう色づいている感じですね。グッドタイミングで記事にして頂いてありがとうございます。
今度は紅葉の最盛期に行ってみたいと思います。

投稿: キャロル | 2022年12月 4日 (日) 14:36

★ キャロルさん こんばんは♪
お返事が遅れましたが、コメント有難うございます。私のブログのことを憶えていてくださり嬉しいです。紅葉の見ごろの時期は難しいですね。まだ早すぎて出直したこともあります。桜(ソメイヨシノ)の場合は、近所の(私だけの)標本木を見ていると見ごろの時期が分かるのですが。

投稿: りせ | 2022年12月 7日 (水) 02:33

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