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2022年11月 4日 (金)

寂光院 六万体地蔵菩薩の特別公開

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※写真は全てクリックで拡大します。

現在、大原・寂光院では旧本尊の「六万体地蔵菩薩」の特別公開が行われています。ただし、今後の開催日は11月5日(土)、6日(日)、12日(土)、13日(日)、19日(土)、20日(日)、23日(水)、26日(土)、27日(日)、時間帯は9:00~16:00です。

旧本尊は火災で大きく焼損しましたが、像内の納入品がほぼ無傷であったことなどから、現在も重要文化財の指定が継続されている貴重な仏像で、3年ぶりの公開です。

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「寂光院」は山号を清香山、寺号を玉泉寺という天台宗の尼寺です。その創建は古く、飛鳥時代初期の推古2年(594)に聖徳太子が父・用明天皇の菩提を弔うために建立したと伝えられています。

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初代住持は聖徳太子の御乳人であった玉照姫(たまてるひめ)です。玉照姫は敏達13年(547)に出家して慧善比丘尼(えぜんびくに)と称し、日本で最初の三人の比丘尼の一人といわれています。

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慧善比丘尼の後、代々高貴な家門の姫君らが住持となり法燈を守り続けてきたとされます。「本堂」は桃山時代頃の建築の特色を残しているといわれていましたが、平成12年(2000)の火災で焼失、平成17年に当時の姿に再建されました。

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初代以後の住持は史料が消散して寺には名前は伝わっていないそうです。寂光院では他の資料から判明している阿波内侍(あわのないじ、藤原信西の息女)を第2代住持と位置づけています。「書院」

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阿波内侍は建礼門院徳子に仕え、崇徳天皇の寵愛をうけた女官でしたが、出家して平安時代末の永万元年(1165)にこの寺に入寺し、証道比丘尼と称しました。(本堂の右手にある書院の横から渡り廊下を通って本堂にお参りします。途中に池があります。)

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「四方正面の池」 池の周囲に小径がつけられ、どの方向から見ても正面となるように、周りに植栽が施されています。正面の山腹に三段に分かれた小さな滝があり、そこから池に水が流れ込み、左に観音像があります。

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最初の本尊は聖徳太子作と伝えられる六万体地蔵尊でした。鎌倉時代に新たに作られた本尊(重文)は、上記の火事で焼損したため、現在は模刻された地蔵菩薩像が本堂に安置されています(下の写真)。

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本堂の上から見た山門。

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阿波内侍は質素な身なりだったと思われますが、宮中の女性だけあって着こなしのセンスがよかったようです。草生の里の女性がその真似をして、今の大原女の姿になったといわれています。次の第3代住持のことは後程。(本堂の上から西の方。)

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室町時代になると寺は荒廃しましたが、安土桃山時代には淀殿の寄進によって修復がはじまり、1603年には豊臣秀頼により本堂が再建されました。本堂の右手前にある「雪見灯籠」は鉄製灯籠で、秀頼が伏見城にあったものを寄進したと伝えられています。

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書院の横にある手水鉢は、秀頼が1601年に寄進したもので、銘が入っています。秀頼の母・淀殿は幼くして亡くなった鶴松を弔い、秀頼の身を案じて寂光院の復興に尽力し、徳川家康も協力したといわれています。

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第3代住持となったのは建礼門院徳子(平清盛息女、高倉天皇中宮)です。夫・高倉天皇は8歳で即位、父の後白河法皇の院政の下で、1181年に病で亡くなりました。建礼門院は文治元年(1185)年に入寺し真如覚比丘尼と称しました。(山門を内側から)

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本堂前西側の庭園は『平家物語』にも描かれ、心字池を中心に千年の姫小松や汀(みぎわ)の桜、苔むした石のたたずまいが美しいとされました。姫小松は「中嶋の松にかかれる藤なみの うら紫にさける色」と伝わっています。

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「姫小松」は樹齢数百年になる五葉松の大木で、「汀の桜」と寄り添うように立っていましたが、先の火事で焼けてしまいました。池の右の柵の中に幹が残っています)。汀の桜は池の左に新しく植えられました。(右の西門を出ます。)

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建礼門院は、源平の合戦に敗れ壇ノ浦で滅亡した平家一門と、我が子安徳天皇の菩提を弔いながら、この地に侍女たちとともに閑居して終生を過ごしました。西門を出た林の中に「御庵室遺跡」があります。

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文治2年(1186)の4月下旬、後白河法皇は忍びの御幸で寂光院の建礼門院を訪ねました(大原行幸)。その庵室は、「後ろは山、前は野辺、来る人まれなる所」だったそうです。庵室跡の右手奥に建礼門院が使用したという井戸があり、今も水が湧いています。

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『平家物語』によれば、法皇が建礼門院の身の上を憐れんだのに対し、建礼門院は自らの人生を振り返り、仏教の六道になぞらえたとされます(六堂語り)。庵室跡の前に小さな「合掌地蔵」が置かれています。

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火事で焼損した本尊は財団法人美術院において修理を施されて、現在は庵室跡の西の耐火構造の収蔵庫に安置されています。焼損しても重要文化財の指定がされたままなのは珍しい例だそうです。

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先の火事で本堂が焼け落ちたにも関わらず、火災現場に凛として立っていた姿は神々しいものだったといわれています。ほとんど炭化していましたが、樹脂をしみ込ませてこの姿を保っています。

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特別公開では、人々の願いが込められた胎内の多数の地蔵菩薩を、灼熱の炎の中で守り通した姿に感動すると思います。

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庵室跡から谷をはさんで向かいの山の中腹に、阿波内侍と建礼門院に仕えた3人の侍女(大納言佐局、治部卿局、右京大夫)の墓があります。阿波内侍は、後白河法皇の大原行幸の一切を取り仕切り、建礼門院の最期をみとったともいわれています。

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建礼門院は庵室に阿弥陀三尊を安置して28年間祈る日々を送り、建保元年(1213)に58歳で亡くなりました。寂光院の右隣に「建礼門院大原西陵」があります。西陵とは、三千院の隣にある後鳥羽天皇と順德天皇の大原陵に対して西にあるからとされます。

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もう一度境内にもどり、「諸行無常の鐘楼」 江戸時代に建立された鐘楼には「諸行無常の鐘」と称する梵鐘が懸かっています。鐘身の銘から当時の住持は本誉龍雄智法尼で浄土宗僧侶であることが分かったそうです。

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平家物語には、大原行幸で後白河法皇が詠んだ歌が載っています「池水に汀の桜散り敷きて 波の花こそ盛なりけれ」。散桜ではなく散紅葉が浮かんでいました。

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参道の石段途中に宝物殿の「鳳智松殿」があり、寂光院に伝来する平家物語ゆかりの文化財や資料、火災にあった本尊の胎内仏などを展示しています。(下の右の建物)

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コメント

地蔵菩薩は、今にも壊れそうなのに、
この形でとどまっているのですね。凄いことです。
ただ、保存が大変かもしれませんね。
ぶつかっただけで、崩れてしまいそうな気がします。

投稿: munixyu | 2022年11月 4日 (金) 16:04

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