嵐山 法輪寺から渡月橋へ
過去の全記事 2006年1月27日から毎日更新しています。
11月も末になり、ニュースの紅葉情報では「見ごろ」、「色あせ」、「落葉」の場所が混在しています。そんな中で、嵐山方面は相変わらずの人出のようです。
今日は嵐山の過去の記事を組み合わせて、紅葉が見ごろの時期の法輪寺から渡月橋左岸へとめぐります。TOPは法輪寺の山門で、その左手に稲荷社があります。山門の前がお寺の駐車場になっています。
奈良時代の和銅6年(713)行基菩薩が木上山葛井寺を創建、以後、歴代天皇の勅願所として国家安泰、五穀豊穣、産業興隆などの信仰を集めました。平安時代の天長6年(829)空海の弟子・道昌が寺を再興、虚空蔵菩薩像を安置して法輪寺と改めました。
幕末の禁門の変(1864)で本堂とともに鎮守社を焼失してしまいました。昭和44年当時の近畿電気通信局長の主唱により、電気関係事業の発展と無事故安全を祈願する電電宮の社殿が再興されました。(参道の石段を途中まで上ったところです。)
法輪寺の鎮守社は明星天子、雨宝童子、電電明神などの大空の自然に関連した神々を祀っていて、雷や稲妻の神を祀る電電宮が今日の電気・電波の守り神であると考えたのです。石段の途中にあります。
最近では、電気通信事業者やコンピュータの関係者の信仰も集め、電気自動車やハイブリッドカーの電気システムの安全祈願もおこなっているそうです。
石段を上ると、正面に本堂があります。本尊の虚空蔵菩薩(嵯峨虚空蔵)は、丑年と寅年の守り本尊だけでなく、記憶を増し智慧を授けるとの信仰があります。産業振興、技芸上達、学問向上、開運・招福などのご利益もあるとされます。左に狛牛、右に狛虎がいます。
虚空蔵菩薩の信仰は、人間をはじめ動植物など生きとし生けるもの、全ての物質の誕生、生存、変遷を、その慈悲によって守りつかさどるという考え方なのだそうです。また、法輪寺の前身は工芸、技芸を職としてこの地を開拓した秦一族に深く信仰されていました。
このような歴史のなかで、幼少年期から青年期に移ろうとする人生の転換期にある、数え年13の男女が、智福を与え技芸に長じさせ給えと参詣する「十三まいり」が生まれたと考えられています。「多宝塔」昭和17年に再建された方形と円形の二重塔です。
また、秦氏がこの地に養蚕や機織、染織などの技術をもたらしたことから、裁縫、服飾、芸術など技芸の上達を祈願する「針供養」(12月8日、2月8日)が行われるようになったと考えられます。上にある供養塔には平安時代から皇室で使われた針が奉納されてきました。
展望台となっている舞台に行きます。北西の方向には五山送り火の鳥居形から天龍寺、北の方には渡月橋が見えます。
北東の方向には衣笠山や、仁和寺の五重塔、東の方向には比叡山や双ヶ岡。さらに南東の方を向くと大文字山など東山三十六峰、京都タワーまで見えます(写真は省略)。五山送り火の日はこの舞台が開放されるそうです。
この日は、石段の途中から近道を通って渡月橋の方に戻ります。この道は紅葉の美しい隠れた名所で、出口の近くに10月15日の人形の日に「人形感謝祭」が行われる場所があります。
人形の老舗「京都島津」の主催で50年近く前から行われ、毎年3000体の役目を終えた人形が持ち込まれ、子供の成長祈願を兼ねて供養をしてもらいます。中央に人形塚の石仏、右には「集ひ桜」があります。
渡月橋の南詰から右岸を少し遡ります。桂川はおよそ北から南に流れていきますが、このあたりでは西から東に流れています。高倉天皇が寵愛した小督局(こごうのつぼね)は時の権力者・平清盛の怒りを恐れてこのあたりに身を隠していました。
高倉天皇の命を受け小督を探していた源仲国が、聞き覚えのある琴の音を聞きここに馬をとめたとされる「こまとめ橋」。(知らないと見逃してしまいます。小督の話は『平家物語』からでこの後も続きます。)
「櫟谷宗像(いちたにむなかた)神社」 大堰川の守護神で、奥津島姫命 (おきつしまひめのみこと)を祀る「櫟谷社」と市杵島姫命 (いちきしまひめのみこと)を祀る「宗像社」が一つの社殿に祀られています。境内にいわた山モンキーパークの受付があります。
渡月橋あたりの桂川は「大堰川」と呼ばれ、橋より上流を保津川、下流を桂川と区別することもあります。ここには様々な種類の船が行きかい、下は「星のや京都」の送迎船。
お客を降ろした保津川下りの船、渡月橋の下流に向かいます。
渡月小橋の上から、星のや京都の桟橋、奥は「亀山」。
こちらには保津川下りの船の吊り上げ場、クレーンでトラックに数隻ずつ載せて出発点の亀岡に運びます。船頭さんは別の車(タクシー)で行きます。
渡月橋の上から、シーズンなのでひっきりなしに川下りの船が戻ってきます。
高倉天皇は小督の失踪を嘆き、密かに腹心の源仲国に小督を探して宮中に呼び戻すよう命じていました。源仲国は嵯峨野を探し回っていた名月の晩、かすかに琴の音が聴こえてきました。「琴きゝ橋跡」
ところで、古くはこの川は葛野川と呼ばれていました。5世紀後半この地域を開発した渡来系豪族・秦氏が、川に大きな堰(せき)をつくり、灌漑用水を引いたことから大堰川と呼ばれるようになりました。渡月橋を渡って左岸から
神護寺で空海の教えを受けた道昌(798-875)は、秦氏の建設した葛野大堰を修復、大堰近くに創立された葛井寺を整備して法輪寺としました。そして、大堰川に門前橋の「法輪寺橋」を架けました。渡月橋の向こうに先ほどの法輪寺が見えます。
小督は清盛を恐れて帰るのをためらいますが、仲国に説得されて高倉天皇の元に帰り、二人はひっそりと逢瀬を重ねます。しかし、秘密が清盛に漏れて無理やり出家させられてしまいます。「車折神社 嵐山頓宮」の前には「琴きき橋」が造られています。
「アラビカ京都 嵐山」の横を入ると「小督塚」、小督は再び嵯峨野に戻ってきて、このあたりに隠棲したとされます。五輪塔は琴の名手の小督の供養塔で、小督の墓は清閑寺の高倉天皇稜のそばにあります。
鎌倉時代の亀山天皇(在位1259-1274)が満月の晩に舟遊びをして、月が橋の上を渡るように見えることから「くまなき月の渡るに似る」
と述べたことから「渡月橋」と呼ばれるようになりました。
天龍寺の方へ行く道との分岐点に、このあたりの景観を創ったともいえる道昌の石碑「法輪寺道昌遺業大堰阯」がありました(最近見当たらないのでどうなったのでしょうか?)。右の石碑は「亀山離宮跡公園」。
私が渡月橋を訪れる時に、必ずといっていいほど法輪寺を訪れるのは上で述べた歴史からです。下の対岸に「琴ヶ浜茶屋」があり、こちらから船で渡ることができます。またこの茶屋のコンビニ船が保津川下りの船を迎えにいきます。
保津川下りの船着き場あたりで、向うに茶店「亀山屋」が見えます。この後、お昼を予約してある「松籟庵」に向かいました。
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コメント
京都の人出は、ほぼコロナ以前に戻ったようですね。
この分だと、来年は多くの規制が緩和されるかもしれません。
早く元に戻って欲しいものです。長いですよね。
投稿: munixyu | 2022年11月30日 (水) 13:30
★munixyuさん こんばんは♪
いつもコメントありがとうございます。お返事が滞りがちですみません。
京都に観光客が戻ってきたのは嬉しいのですが、旅行振興策による一時的な増加ともみられています。外国人観光客が以前のように戻ってくるのはまだ先だと思われます。
投稿: りせ | 2022年12月 7日 (水) 02:16