大原野神社 紅葉ライトアップ
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西山の大原野神社では本日から3日間だけ「紅葉夜間ライトアップ」が行われます。すなわち11月25日(金)~27日(日)の期間、午後5時~8時の時間帯に一の鳥居から社殿までまっすぐ伸びる参道は、両サイドに紅葉が茂り様々なイルミネーションで彩られます。
拝観料は無料、駐車場は有料で期間中は大型バスでのご来場はご遠慮ください。最初に夕方の大原野神社の写真をもとに神社の由緒や見どころを紹介、後半にライトアップの写真を載せます。
当神社は延暦3年(784)桓武天皇の長岡京遷都の際、藤原氏の氏神である奈良春日大社の神々をこの地に最初に祀られのが始まりで、「京春日」といわれています。
平城京の東にある春日大社は古来より神山と崇められる御蓋山(みかさやま)の西麓に神護景雲2年(768)に鎮座し、政権を担う藤原氏にとっては王城鎮護、国家鎮護の社でした。
一方、大原野神社は長岡京の西、小塩山の東麓に鎮座し、平安京遷都後も二十二社(常に朝廷の殊遇を受けた社で、国家に重大事や天変地異のあるごとに使を遣わされて奉幣を受けた二十二の神社)に列し国家鎮護の社とされました。
その後、約60年を経た 嘉祥3年(850)左大臣・藤原冬嗣を祖父とする文徳天皇は冬嗣の長年の願望を想い出して、壮麗な社殿を造営されました。
仁寿元年(851)始めて勅祭が行われ、春秋二季を例典としました。藤原氏の一族では女が生まれると中宮や皇后になれるように、この社に祈り、幸にして女が祈願通りの地位につくと美くしく行列を整えて参拝することが例となりました。
なかでも寛弘2年(1005)3月8日に中宮彰子が本社に行啓、父の左大臣藤原道長、紫式部以下がお供をしました。その行列の絢爛さは、人々の眼をみはらせたといわれています。
このような由緒のもとで栄えた神社であったので、六国史、大鏡等は勿論、源氏物語、その他有名な古典には当社のことがしばしば書きとどめられています。
御本殿の第一殿には建御賀豆智命(たけみかづちのみこと)、第二殿には伊波比主命(いわいぬしのみこと)、第三殿には天之子八根命(あめのこやねのみこと)、第四殿には比賣(ひめ)大神が祀られています。
古くから政治・方除・知恵の神として、また良縁を授けて下さる女の守護神としての篤く信仰されてきました。ここは狛鹿さんです。
残念ながら鹿年は無いですね。
「若宮社」 本殿の第3殿と第4殿の御子神である水徳の神、天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)を祀ります。平成25年の修理で部材が元禄14年(1701)まで遡ることが明らかになり、境内の中で最も古く、春日大社の形式に倣った重要な建物です。
「鯉沢の池」 奈良の猿沢池にまねて造られ、春季には名にしおう小塩桜、霧島、つづじなど到るところに競い咲き、夏季は新緑にはほととぎす、秋季は紅葉、冬季は丹朱社殿の雪景が一しおの尊厳と優雅さを添え、
その風景は今なお王朝の余香を感じることもできます。池の畔の茶店が遅くまで賑わっています。
貞観18年(876)、清和天皇の女御となった藤原高子(二条の后)が当社に参詣した際に、右近衛権中将で高子のかつての恋人であった在原業平がその行幸につき従い、「大原や小塩の山もけふこそは 神世のことも思出づらめ」と詠みました。
伊勢物語の小塩の山に載っています。[大原のこの小塩の山も今日ばかりは、神代のことを思いだしていることでしょう]という意味だそうです。ここからがライトアップです。一の鳥居と二の鳥居の間、
平安時代の官吏で歌人の藤原伊家(これいえ)が大原野神社を参詣した時の歌「千代までも 心してふけ もみじ葉を 神もをしほの 山おろしの風」(倉時代初期に編纂された勅撰和歌集 新古今和歌集) 二の鳥居を振り返って
「大原野の紅葉が散るのを神様も惜しんでいるので、小塩山の山おろしの風はいつまでも紅葉を散らさないように吹いてくれ」という意味だそうです。 向こうが三の鳥居
大原野神社は源氏物語の作者、紫式部にもゆかりがあります。上述の寛弘2年の中宮彰子の行啓の際に紫式部もお供をして、藤原道長は紫式部のパトロンでもあり、大原野神社を自分の氏神と崇めていたようです。
源氏物語二十九帖「行幸(みゆき)」の巻には、大原野へと向かう冷泉天皇の華やかで美しい行列の様子が描かれています。
また、紫式部が生前に自ら撰んだとされる家集「紫式部集」に次の歌が詠まれています。暦に、初雪降ると書きつけたる日、目に近き日野岳(ひのたけ)といふ山の雪、いと深く見やらるれば (本殿から)
「ここにかく 日野の杉むら埋む雪 小塩(をしほ)の松に 今日(けふ)やまがへる」
暦に 初雪が降ったとしるされる今日 近くに見える日野岳という山の杉林が雪が深く積もっている。「今日は、都でも小塩山の松に、雪がちらちらと散り乱れて降っていることであろうか。」
この歌は長徳2(996)年、越前国の国司に任じられた父藤原為時とともに越前国にやってきた紫式部が詠んだ歌です。初めて見る雪国の山を見て都を懐かしみ、真っ先に思い出したのが小塩山でした。
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