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2022年11月 1日 (火)

大将軍八神社 方徳殿の特別公開

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

北野天満宮の南西に大将軍八神社があります。京都通の方ならば、平安京の造営に際して、王城鎮護のために都の四方に大将軍を祀ったという通説をご存知だと思います。

私も、大将軍にゆかりがあるという神社を紹介するときに、それぞれの由緒を尊重してきました。しかしながら、大将軍八神社の由緒や11月1日(火)~5日(土)に公開される方徳殿の神像たちを見れば、四方の大将軍が疑わしいと思わざるを得ません。

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大将軍八神社は、平安遷都(794年)にあたり、桓武天皇が陰陽道にもとづいて、王城鎮護のため天門(北西の方角)に星神・大将軍を祀ったのが始まりとされます。当初は「大将軍堂」と呼ばれたそうです。

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江戸時代に編纂された『山城名勝誌』や『和漢三才図会』によると、大将軍社が平安京の4隅に奉祀されたとされますが、平安京古地図には大内裏の北西角にしか描かれていないそうです。(ご神木)

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山城名勝志は、もと山城国の菓子屋の大島武好が京に出て野々宮家に仕え30余年を費やして1711年に完成した地誌です。(手水舎の横に、宮司さんの就任記念(平成22年)のユズリハと夏ミカンの木。)

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一方、和漢三才図会は、大坂の医師・寺島良安が1712年に編纂した日本の類書(百科事典)でこちらも30数年かかりました。これらの書によって、四方の大将軍社の考えが広まったようです。古文書とは、著者の専門以外では間違いや創作が多いとされ、平安遷都から900年以上たっています。

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陰陽道は中国に始まり、その書『宅経』によると 「北西を天門として大将軍を祀る」とあります。「三社」右から命婦神社(女性の守護)、厳島神社(芸能)、猿田彦神社(道案内)。?

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すなわち、唐の長安を手本として平安京の天門に大将軍を祀ることで、 四方のすべてを守護したと考えられるそうです。「五社」右から恵比須神社(商売)、稲荷神社(開運)、天満宮(学問)、長者神社(金運)、金比羅神社(交通安全)。

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一方、当社の初見の資料として、『山槐記』に治承2年 (1178)高倉天皇の中宮建礼門院の安産祈願の際、諸社寺に奉幣使が参向し、その41社の内の1社として記されています。

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室町時代の伏見宮貞成親王の日記『看聞御記』(1433年)によると、1340年から約100年間、大将軍堂は祇園感神院(現八坂神社)の末社になっていました。応仁の乱(1467-1477)で焼失、1535年に復興しました。現在の祭神は後ほど出てきます。

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江戸時代には大将軍村の鎮守社として祀られ、その頃星の大将・妙見(北極星)信仰から太日星(金星)信仰に移り「大将軍社」と名を変えました。また、陰陽道の暦神(八将神)と習合して「大将軍八神宮」とも呼ばれたそうです。

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右の「歳徳神社」の歳徳神は方位神の一つで、その年の福徳を司る吉神です。左の「大金神(だいこんしん)神社」の大金神も方位神ですが、こちらは災いをもたらす神と恐れられ、それを鎮めるために祀られています。

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江戸時代には方除厄除12社参りが流行し 、その際に建立された天保11年の標石が門前にあります。

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明治初年(1868)の神仏分離令によって、神社が仏教の神や外来神を祀ることができなくなりました。当社では、大将軍を「素盞鳴尊」と見なし、その御子・五男三女神とあわせて祭神として、桓武天皇を合祀することになりました。

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その際、社名を正式に「大将軍八神社」と改めました。本殿の周囲を右回りします。上は、神木のオガタマノキ(黄心樹、招霊木)の大木でしたが、上の方の幹が折れてしまいました。左に神具庫、中央に鳥居がみえます。

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本殿の左後ろの「大杉神社」はこのあたりの産土神(うぶすながみ)です。産土神はその土地で生まれた者を一生守護する神とされています。

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大杉神社の祠の横にある「豆吉(まめよし)神社」一願成就の神とされ、ご神体はサンショウウオのような石の塊です。神社でも正体は分からないそうですが、鳥居も狛犬もミニチュアで一見の価値があります。

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大杉神社の絵馬所の一角に、この摂社以外の各地の絵馬がかかっています。これらは、若い宮司さん(おそらくご夫妻)が訪れた記念だそうです。

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本殿の北東に宝物館「方徳殿」があり、陰陽師・安倍晴明一族の「古天文暦道資料」(府指定文化財)や江戸時代中期の天文暦学者・渋川春海(1639-1715)の作とされる「天球儀」(下の写真)が収蔵されています。*方徳殿の宝物の写真は大将軍八神社のHPからの転載です。

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また、珍しい錨(いかり)がついた宝船の図があり、信者が寄進した錨が方徳殿の横に安置されています。さらに、平安時代中期から末期の木造神像が多数保管されています。

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これらは明治初期に境内の竹薮(地中)から発見されたもので、多数の古神像が一神社に伝来する例は他にないそうです。そのうち「武装像」50体「束帯像」29体「童子像」1体の計80体が、昭和47年(1972)国の重要文化財に指定されました。

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古神像のうち「武装像」は(仁王像などの)仏教の天部像と共通する特徴もあり、方位を司る大将軍ではないかと考えられています。重要文化財指定を契機に昭和50年に方徳殿が建てられ、5月と11月初めの5日間だけ公開されます。

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80体の古神像について東京国立博物館の丸山士郎氏による研究が行われ、仏教彫刻の強い影響下で仏像ではない神像をいかに表現しようかという製作者(おそらく仏師)の工夫のあとが見られるそうです。

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「束帯像」は武装像程多くはなく、すべて坐して、冠・袍を着用しています。星曼荼羅の北斗星は和装の束帯上に唐装の鰭袖を着けており、当神像との関連が考えられるそうです。

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「童子像」 童の服装である水干と袴を着用しています。左膝を立て草鞋をはき両手を袖の中に入れた姿勢をとっています。北斗星の武曲星には童子形の眷属(けんぞく、家来)が描かれ、当童子像と酷似しているそうです。

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一方、久世康博氏(京都市埋蔵文化財研究所)は、市内における平安遷都以前から平安時代全般の祭祀に関する遺構・遺物を、少しでも可能性のあるものを網羅しています。それによると大将軍関係では当神社以外に出土した祭祀跡はないそうです。

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古神像群は「日本の兵馬俑」ともいえるもので、桓武天皇が平安京の造営にあたって(都の四方ではなく)天門(北西)に大将軍を祀ったという神社の由緒を補強するものといえます。

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