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2022年9月30日 (金)

東高野街道を歩く 松花堂庭園へ

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事の飛行神社を訪れた後、東高野(ひがしこうや)街道を南に歩きました。上の安居橋は毎年9月に行われる石清水祭の放生行事の舞台となります。

「東高野街道」は京都から高野山への参詣道のうち一番東に位置します。男山の東麓に沿って南下して河内国の東部を通った後、長野(河内長野市)で西高野街道と合流します。

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駅前のロータリーから東高野街道に入ります。右はスーパーマーケットの「ツジトミ」、向うに石清水八幡宮の一の鳥居が見えます。実は先日の「八幡五水」巡りで相槌神社と善法律寺は紹介しています。

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TOPの写真の安居橋のたもとにある「能蓮法師歌碑」 文治元年(1185)に行われた石清水八幡宮・歌合せで能蓮法師が詠んだ和歌「石清水清き流れの絶えせねばやどる月さえ隈なかりけり」。

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街道を行くと、左に「奈良街道」が分かれます。どちらも綺麗な石畳が敷かれています。右の東高野街道のすぐ先に先日紹介した相槌神社があります。

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「泰勝寺」 大正7年(1918)に建てられた社僧・文化人の松花堂昭乗ゆかりの寺です。昭乗の墓や宝物館などがあります。また昭乗が利用していた茶席「閑雲軒」が復元され、日本百席の一つに選ばれています。

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「本妙寺」 室町時代末期に創建され、法華宗真門派本隆寺の末寺で、日蓮上人像が安置されています。織田信長により行われた安土問答(法華宗と浄土宗との宗論)で、殉教した日門上人の墓所となっています。

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左は「小谷食堂」で、八幡でランチといえばここのカレー中華のことだそうです。右に小さな祠があります。

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「丸太酒店」 美しい日本家屋ですが、造り酒屋ではないようです。

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「浄泉寺」 浄土真宗本願寺派の寺院です。お寺らしい建物が見当たりませんが、正面の建物かも知れません。

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右の生垣は先日八幡五水で紹介した「善法律寺」

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「ゲストハウス五番館」 葬儀会館で、遺族の宿泊も可能(無料)だそうです。

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マンホールではなく側溝の蓋で、男山にちなんで竹が描かれています。

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「亀屋芳邦」 創業100年以上の和菓子屋。京銘菓「石清水」は粒あんと栗をはさんだみかさ、八幡銘菓の「源氏巻」は赤い羊羹と白餡を巻いたもの、「男山」は胡桃、「星のしずく」はココナッツが入っています。


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京銘菓「石清水」

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八幡市立「志水公民館」、歴史街道にあることからトイレや大浴場など観光客の休憩場所としても利用できるそうです。

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「正法(しょうほう)寺」 山号を徳迎山という浄土宗の寺院です。鎌倉時代初めの建久2年(1191)に、清水(静岡県清水市)の高田蔵人忠国が源頼朝の幣礼使としてこの地に居住して、新清水と称したことに始まります。

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3代目宗久は石清水の「清」を避けて志水と改め、本格的な堂宇を建造、江戸時代には志水宗清の娘・お亀が徳川家康の側室となり、尾張藩祖・徳川義直の生母となったことから幕府の手厚い庇護を受けました。紅葉の頃に訪れています。

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左隣にある「安心院」は、正法寺の末寺で慶長5年(1600)に建立されました。同じく正法寺末寺の宝寿庵、地蔵院、華光院などが合併または無住になったことから、それらの本尊が本堂に安置されています。

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「左 東在所道」と書かれ道標は「三宅安兵衛の碑」の一つ。安兵衛は幕末・明治時代の商人で、京都のために資産を使えと言い残し、長男・清治郎が遺志に基づき京都府内におよそ400基、八幡市に120基の史跡・名所の案内碑を建立しました。

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「泥松稲荷神社」 その昔、ある寺の庵主が「どろ松」という狸を助けたところ、その霊力が乗り移って占いが当たるようになったそうです。やがて評判が広まり、鳥居と社が奉納されたと伝わっています。

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やがて左に目的地の「松花堂庭園」の塀が現れ、右に分かれ道があります。中央の石標「水月庵」も三宅安兵衛の碑だそうです。右が旧東高野街道で、こちらに立ち寄ります。

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しばらくすると「八角院」の石碑があります。ここは、かって石清水八幡宮の参詣路に当たり、鎌倉時代の建保年間(1213-1219)、石清水八幡宮検校・善法寺祐清が、男山西谷に建立したことが始まりです。

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その後大破、慶長12年(1607)豊臣秀頼によって再建、正方形の四隅を切りとった八角円堂です。もとは男山西谷にありましたが、明治の廃仏毀釈によって現在地に移され、正法寺の場外堂宇「八角堂」となりました。

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ここは前方後円墳「西軍(にしくるま)塚古墳」の円頂部になっていて、国の史跡に指定されています。横に 「泥之阿治佐波毘賣命御墓参考地」とあるのも三宅安兵衛の碑で、古墳の被葬者を推定したものだそうです。

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堂内に安置されていた阿弥陀如来像(重文)はかって全身に金箔が貼られていたそうで、現在は正法寺の宝物館「法雲殿」に安置されています。この本尊により八角堂は阿弥陀堂とも呼ばれていたそうです。

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東高野街道に戻り、松花堂庭園の西門の横に「車塚古墳」の石標があります。ここは前方後円墳の東車塚古墳があった場所で、現在は前方部が削平され、後円部が松花堂庭園の築山(門の向こう)になっています。

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明治時代の調査ですが、全長約94m、後円部径約53m、前方部幅約30mで、後円部と前方部にそれぞれ埋葬施設があったといわれ、国の史跡に指定されています。この後、松花堂庭園に入りました。

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