浄福寺 9月の境内
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先日の記事の千本今出川から東に行くと浄福寺通りがあります。浄福寺通を南に行くと、赤門と呼ばれる浄福寺の東門があるのですが、寺の正門(南門)は一条通に面しています(上と下の写真)。
「浄福寺」は山号を恵照山という浄土宗の寺院です。赤門寺とも呼ばれていますが、その理由は後ほど。
浄福寺の創建は9世紀後半とみられ、延喜7年(907)の官符に「浄福寺は、東院皇后(班子女王)の御廟にして、定額僧四口、聴衆・立義おのおの一人を置く」とあり、班子(はんし)女王(853~900)の御願として建立されました。鎮守社の「弁財天社」
班子女王は、仲野親王(792~867)の王女で桓武天皇の孫にあたり、仁明天皇の第3皇子・時康親王の夫人でした。時康親王は有力な皇族の一人でしたが、当初は皇位継承の望みは薄かったといわれています。「引摂(いんじょう)地蔵堂」と墓地(右)
引摂(引接に同じ)とは仏や菩薩が衆生を救い、悟りに導びくことだそうです。寛文年間(1661-1673)に引接地蔵は洛陽四十八願所の霊場のひとつになりました。
陽成天皇が時の権力者・藤原基経によって廃位され、時康親王は894年に即位して光孝天皇となりました。不遇時代の伝承があります。自ら炊事して薪で煤けた部屋を黒戸として保存。(下の「本堂」は1731年-1733年の再建で、阿弥陀如来像を祀っています。)
町人から多くの物を借用、即位すると彼らが参内して返却を迫り宮中納殿の物で返却した等です。班子女王も自ら市に出て買い物をしていたので、夫の即位後も一日に一度は「物が買いたい」と市巡りをしたといわれます。
897年光孝天皇が崩御すると子の宇多天皇が即位、さらに醍醐天皇が即位すると娘の為子内親王が妃となりました。
しかし、899年為子内親王は産褥のため死去し、班子女王も翌年亡くなりました。下は1734年に再建された「玄関」、後ろに「書院」があります。
室町時代には知恩院・超誉存牛に帰依した後柏原天皇の勅許によって三昧堂が建立されて浄土宗との兼学となり、1571年に崇林(そうりん)が入寺して浄土宗に改められ、翌年知恩院末寺となりました。
安土桃山時代の1587年には相国寺門前北に移転、江戸時代初めの1615年に現在地に移りました。下の「釈迦堂」(1756年再建)には鎌倉時代作の京都で唯一残っている清凉寺式釈迦如来立像を安置しています。
この像は、釈迦を悼んだインドの優填(うてん)王が、釈迦の生前の像を写して造立し、後に中国に渡った釈迦如来像を模刻したもので、釈迦の生前の姿を表している三国伝来の像とされます。
江戸時代前期の1666年に幕府は建物の上屋の梁間を3間(5.9m)内に制限するとの御触書を発し、全国の寺院に適用されました。一方、梁に直角に渡す水平材の長さ(桁行)の規制はありませんでした。
そこで、浄福寺は本堂の再建時に、南の礼堂と北の仏殿の間を繋いで本堂とし、外観は二つの建物、内部は一続きの奥行き9間の大広間を造りました(上の写真)。下は「千体薬師堂」
役人は違法ともいえず黙認したとされ、「日本最古の違法(脱法)建築」として建築家や研究者の間では知られていたそうです。千体薬師堂の厨子
幕末には、西郷隆盛が薩摩藩士700名を伴って上洛、錦小路の京都藩邸や相国寺西の二本松藩邸に宿泊しました。それでも収容できずに、浄福寺の客殿や本堂などが下級武士の宿所となりました。彼らは「浄福寺党」と呼ばれたそうです。東門の方
明治時代の1887年、境内に浄福寺、建仁寺、本圀寺、妙覚寺による共済学校が開校し、その後現在の「浄福寺幼稚園」(下)に発展しました。教育方針として、「宗教的情操を育てる」とともに、
「丈夫な身体をつくる」、「自然に親しむ」等を重視しているそうです。貼り紙には「虫を取ってはいけません」とあります。
ところで、江戸時代の天明の大火(1788年)では京都中が炎に包まれ、住民の80%が被災したといわれます。寺にも火が迫りましたが、17世紀前半に再建された赤門(東門)の前で止まったといわれます。
出火場所の名をとって団栗焼け(どんぐりやけ)ともいわれ、御所・二条城・京都所司代などの要所を軒並み焼失しました。京都で発生した史上最大規模の火災なので、単に京都大火あるいは都焼けとも呼ばれます。
笹屋町通に住む男性が、鞍馬から天狗がこの赤門の上に下りてきて、巨大なうちわで火を防いだのを目撃したという伝承が残っています。赤門を入って右手に「護法堂」があり(上の写真)、火災から寺を守ってくれた天狗を「護法大権現」として祀っています。
奥に「諸天善神」を祀るお堂があり、その中の右側に天狗がそこから飛んできたとされる鞍馬山への遥拝所があります。諸天善神は護法善神とも呼ばれ、仏法および仏教徒を守護する主として天部(天界)の神々のことです。
上の写真の左の石碑も遥拝所で、穴から鞍馬山を拝むようです。お堂の裏に樹齢300年以上というクロガネモチの大木があり、天狗がこの木にとまって火を団扇であおいだといわれています。
天明の大火では、東は河原町・木屋町・大和大路まで、北は上御霊神社・鞍馬口通・今宮御旅所まで、西は智恵光院通・大宮通・千本通まで、南は東本願寺・西本願寺・六条通まで達しました。
この地域では奇跡的にこの一角だけが火災を免れ、火災をくい止めた門にちなんで浄福寺は「赤門寺」ともいわれています。
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コメント
かなり歴史の古い寺なんですね。
何よりも火事を免れたのが大きかったですよね。
火事にならずに、今まで来れたのが、凄いと思います。
投稿: munixyu | 2022年9月27日 (火) 12:52