慧光寺 9月の境内
←目次 2006年1月27日から毎日更新しています。
昨日の記事の浄福寺の赤門の向かいに慧光寺(えこうじ)の山門があります(上の写真、恵光寺とも書きます)。山門の横に鐘楼がありますが、梵鐘が見えません。
「慧光寺」は山号を智照山という日蓮宗の一般寺院で、旧本山は大本山本圀寺(六条門流)です。日蓮宗では昭和16年に本山と末寺の関係を解消して、個々の寺院を祖山、霊跡寺院、由緒寺院、一般寺院に分けています。山門の内側から見た鐘楼。
戦国時代末期の天文年間(1532-1555)、野本式部少輔輝久(13代足利義輝の家臣)の正室伊佐が夫の菩提を弔うため自ら剃髪して妙法尼と号し、屋敷を寺に改めたのが始まりです。(庫裏)
寺名は夫の法名・慧光から付けられました。野本輝久は、三好長慶の足利義輝暗殺計画に加わるように誘われましたが断ったため、長慶の家臣・松永久秀によって謀殺されました。
今出川通大宮東入あたりにあった伊佐の屋敷(後の慧光寺)は「伊佐殿」と呼ばれ、現在でも「元伊佐町」という町名が残っています。
鐘楼や庫裏の周りにはフヨウがやムクゲ咲いていました。
「玄関」の横に慧光寺の立派な石標があります。
その後、上長者町烏丸付近(新在家)に移り、弘通所(ぐずうしょ)の名で呼ばれました。弘通とは仏教を布教することです。さらに、天正年間(1573-93)に現在地に移りました。イチョウの大木は上京区民誇りの木となっています。
本堂は江戸時代中期の享保15年(1730)に火災で焼失し、その後再建されました。本尊として三宝尊を祀っています。日蓮宗では、三宝尊は仏・法・僧の三宝を象徴した本尊を意味し、様々な形があります。
山門を入った正面にある「七面堂」は七面(しちめん)大明神を祀ります。七面大明神は、七面天女とも呼ばれ日蓮宗において法華経を守護するとされる女神です。この女神について伝承があります。
日蓮は見延に隠棲して信者たちに説法をしていました。見知らむ美女が何度も話を聞きに来るので、人々はいぶかしがっていました。日蓮が「あなたの本当の姿を皆に見せてあげなさい」というと、女は「お水を少しいただきたく思います」といいます。
日蓮が水差しの水を一滴たらすと女はたちまち緋色の紅龍の姿となって、「私は七面山に住む大明神です。末法の世に法華経を修め広める人々を末代まで守護します」といい、七面山の方に飛んでいってしまいました。
日蓮が七面大明神を祀ることはできませんでした。日蓮没後の16年目、弟子の日朗上人らが初めて未踏の七面山に登りました。「南無妙法蓮華経」と刻んである題目碑。
すると、大きな石の上に七面大明神が姿を現したので、日朗はこの石を影嚮石(ようごうせき)と名付け、その前に祠を結んで七面大明神を祀りました。境内の東に墓地があります。
後に法華経とともに七面天女の信仰も全国に広がりました。七面天女は吉祥天とも弁財天ともいわれ、眼病平癒のご利益があるとされます。(ここにも題目碑)
慧光寺では明治時代頃まで秘伝の目薬を製造して販売していたそうです。
「こぞうくん」は日蓮宗新聞の親善大使だそうです。
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コメント
眼は大切ですよね。
最近、老眼が始まりつつあるみたいで、
少し困っています。
投稿: munixyu | 2022年9月28日 (水) 12:36
★munixyuさん おはようございます♪
ディスプレイを見ることも多いと思いますので、遠近の両方に焦点が合うようにできるといいですね。
投稿: りせ | 2022年10月 1日 (土) 08:55