千本ゑんま堂 小野篁と紫式部
過去の全記事 2006年1月27日から毎日更新しています。
昨日の記事の上品蓮台寺を出て、千本通を南に行くと質素な冠木門があります。一般には「千本ゑんま堂」とよばれ、正式名称を「引接寺」という高野山真言宗の寺院です。「引接」は「引導」と同じ意味で、仏の道に導くことだそうです。
以下では、過去の9月の記事を再編集して、小野篁と紫式部の関係を少しを詳しく説明しています。
平安時代前期の歌人でもあった官僚・小野篁(802-853)は、この世とあの世を行き来する神通力があり、昼は宮中に勤務し、夜は閻魔之廰(えんまのちょう)に仕えたという伝説があります。(門を入ると道祖神がありました。)
篁は、閻魔大王から現世浄化のため、塔婆を用いて亡き先祖を再びこの世へ迎える「精霊迎えの法」を授かりました。その根本道場として、朱雀大路(現・千本通り)の北に自ら閻魔大王像を彫って納めた祠がゑんま堂の始まりとされます。(本堂)
平安時代中期の寛仁元年(1017)、藤原道長の後援を得た比叡山恵心僧都源信の門弟・定覚上人が、ここを「諸人化導引接仏道」の道場として、「光明山歓喜院引接寺」と命名し、仏教寺院として開山しました。
南北朝時代の後小松天皇(1377-1433)が立ち寄り、普賢象桜を分け与えたといわれています。室町時代には花見で賑わい、3代将軍足利義満は米50石を寄進して、桜の開花に合わせて狂言を行わせ、その慣わしは江戸時代まで続けられたといわれています。
応仁の乱(1467-1477)による兵火は都の大部分を焼き尽くし、このあたりも火の海となって当初の閻魔大王像は焼失してしまいました。
長享2年(1488)仏師・定勢が新たに閻魔大王像を刻んで再現・安置しました。この像は高さ幅とも2.4mの木製で、現在も本尊として祀られています。
閻魔大王は死んだ人間を、あの世のどこへ送るかを決める裁判長の役目を担い、右に検事役の「司命尊」、左に書記の「司録尊」が安置されています。(これらの像は寺務所で申し込めば有料で御開帳してくれるそうです。)
本堂の正面にある太縄がついた「鰐口(わにぐち)」の上に、「萬倍碗(まんばいわん)」が載っています。閻魔大王の湯呑み茶碗とされ、投げ入れた賽銭が茶碗に入ると1万回のお参りに相当する功徳が得られるといいます
「ゑんま堂狂言」(市登録無形民俗文化財)は京都の三大念佛狂言の一つで、ほとんどの演目にセリフのあることが特徴です。天正10年(1583)織田信長が上杉謙信に贈った狩野永徳筆の洛中洛外図屏風にも、境内でこの狂言を演じる様子が描かれているそうです。
昨日の記事でも紹介したように、かってこの地は葬送地「蓮台野」の入口にあたり、現在も周辺からは多くの石仏が出土するそうです。本堂の裏に「地蔵供養池」があります。
「盂蘭盆(うらぼん)」 旧盆の8月7日~15日に先祖の精霊がゑんま様の許しを得て家に戻り、人々は水塔婆を流し迎え鐘をついて、その音にのって帰ってくる「おしょらいさん」を仏壇の扉を開いて迎えます。15日夕~16日には再びあの世へ送る「お精霊送り」をします。
上では、小野篁が閻魔大王に授かった儀式としましたが、これは篁の伝説の一つです。あるとき、閻魔大王が三熱苦に悩んでいました。三熱苦は畜生道で受ける三つの苦しみで、閻魔大王は人々の苦しみも背負ってしまうのです。
篁は自分の師である満慶上人の行う菩薩戒を推薦し、上人は特別に許可を得てあの世に行き、閻魔大王の苦しみを取り除きました。この時に満慶上人が見た地蔵菩薩の功徳をこの世に持ち帰り説いたことが、地蔵信仰や地蔵盆に繋がるという伝承です。
「紫式部供養塔」(重文) 南北朝時代の至徳3年(1386)円阿上人により建立されたとの銘があり、紫野雲林院の塔頭白毫院にあったものが移されました。紫式部は晩年を雲林院で過ごしたといわれています。
当時の人々は「ふしだらな絵空事で多くの人々を惑わせた」として、紫式部は死後に地獄行きになったと信じていて、この供養塔は彼女のあの世での不遇な姿を思い成仏させんがために建立したと伝えられています。
「紫式部ブロンズ像」は平成20年(2008)の源氏物語千年紀を記念して、信者から寄進されたものです。雲林院の近くの堀川通に面して「紫式部の墓」があり、その墓の隣に小野篁の墓が並んでいます。
14世紀中頃の四辻善成による源氏物語の注釈書『河海抄』には「式部墓所在雲林院白毫院南 小野篁墓の西なり」と明記され、少なくとも室町時代には二つの墓が並んでいたそうです。(以下4枚は紫式部の墓です)
さらに 15世紀後半の一条兼良による注釈書『花鳥余情』、江戸時代の書籍『扶桑京華志』や『山城名跡巡行志』、『山州名跡志』にも。ふしだらな絵空事を書いて地獄に落ちた紫式部を救ってほしいと、源氏物語の愛読者が小野篁の墓を横に遷したと書かれています。
「源氏供養」とは、地獄に落ちた紫式部の苦を救うとともに愛読者の罪滅しのために、法華経二十八品を各人が一品ずつ写経して供養した法会だそうです。
平安末期の仏教説話集『宝物集』などに見られ、治承(1177~1180年)から文治(1185~1189)のころに始まったとされます。美福門院加賀によって行われた記録もあるそうです。
美福門院加賀は、歌作りにおいて源氏物語を重要視した藤原俊成の妻で、源氏物語の証本『青表紙本』を作成した藤原定家の母です。また、鎌倉時代に成立して、源氏供養を題材とした能楽作品「源氏供養」が現愛に伝わっています。
「童観音(わらべちゃん)」 平成17年(2005)に建立されたブロンズの座像で、静岡県の彫塑家山田収氏の作品です。子供達の災難除け、息災を守護するとされます。近年の子ども達の痛ましい事件を憂い、庵主(住職)が毎朝、祈願しているそうです。
ゑんま堂会館「元清閣」 平成15年(2003)の京都まつりパレードに制作したゑんま大王、司命尊、司録尊の人形が飾ってあり、なかなかの迫力です。
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