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2022年9月12日 (月)

金地院 東照宮と鶴亀の庭

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※写真は全てクリックで拡大します。

南禅寺の本坊を出て塔頭の金地院を訪れました。金地院は応永年間(1394-1428)に足利義持が北区鷹峰に建立したものを、慶長10年(1605)に南禅寺270世住持・以心崇伝により現在地に移築されました。

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拝見受付を過ぎて、庭園に向かうと「明智門」があります。明智光秀は、天正10年(1582)に本能寺で織田信長を倒してから豊臣秀吉らに反撃されて死ぬまでの期間に、五山や大徳寺に銀を寄進しました。

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大徳寺は光秀の冥福を祈るために、その銀を用いて方丈の南門を建てました。明治になってこの門は金地院に譲られ、もともとこの位置にあった門は豊国神社に移されました(国宝の唐門)。門を入って振り返って見ると。

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ところで、以心崇伝は永禄12年(1569)に室町幕府幕臣の一色秀勝の次男として京都で生まれ、元亀4年(1573)南禅寺で出家し266世・玄圃霊三(げんぽれいさん、1535-1608)の弟子となりました。

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醍醐寺三宝院などで学び、慶長10年(1605)37歳で鎌倉五山第一位の建長寺住職、さらに臨済宗五山派の最高位・南禅寺270世住職となり官寺の頂点に立ち、後陽成天皇から紫衣を賜りました。(弁天池 境内の東になります。)

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慶長13年(1608)相国寺の西笑承兌(せいしょうじょうたい)の推薦により徳川家康に招かれ駿府に赴き幕政に参画します。(池の畔を南に行くと、「東照宮」(重文)があります。)

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慶長15年(1610)駿府城内に建立された金地院に居し、慶長17年元佶が没すると、貿易立国を目指す家康の下で、明や朝鮮をはじめ東南アジア諸国との交易、西欧諸国との接触、外交文書の起草や朱印状の事務取扱を一手に引き受けました。

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東照宮は、徳川家康の遺言にもとづいて、江戸時代(1628)に小堀遠州の設計で造営、京都で唯一の権現造様式の建物です。社殿は、拝殿(下の写真)、間をつなぐ石之間、本殿からなり、建造当初は日光東照宮に比べられるほどの規模だったそうです。

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本殿には家康の遺髪と念持仏を祀り、拝殿天井に狩野探幽(1602- 1674)筆の「鳴龍」、土佐光起(1617-1691)筆の三十六歌仙の額、青蓮院宮尊純法親王(1591-1653)筆の歌が納められています。

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慶長18年(1613)12月崇伝は家康からキリスト教禁教の起草を命じられ、一晩で「伴天連追放之文」を起草して翌日には提出しました。この令はキリスト教徒の迫害や島原の乱の悲劇を引き起こしました。(奥に本殿があります。)

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しかし一方では、キリスト教を利用したスペイン・ポルトガルの「世界領土分割」に抗して、日本が植民地とならなかった要因ともいわれています。また本寺末寺制により各宗派を統制、檀家寺請制度で民衆の統制を図りました。(御成門)

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元和元年(1615)大坂の陣で豊臣家を滅ぼした家康は全13ヶ条の武家諸法度を発布。大名の誓紙3ヶ条に以心崇伝が起草した10ヶ条を加えたものです。石段を下りて振り返ると、東照宮がかなり高い場所にあり、御成門の向こうに見えるのが石之間。

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翌年に家康は没し、家康の改葬の際に、崇伝と南光坊天海の間で吉田神道と山王神道のどちらで祀るかの論争となり、結局、南海坊天海の山王之神道が採用されました。(方丈前庭の西に出ました。)

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元和4年(1618)秀忠から江戸城北の丸に約2千坪の屋敷を拝領し金地院を建立。翌年僧侶の人事を統括する僧録となり、以後金地院住持が兼務する慣例となりました。(開山堂 以心祟伝の塔所です。)

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寛永4年(1627)禁中並公家諸法度を起草し、天皇や公家を統制下に置きました。それにより紫衣事件が起こり反対意見書をを提出した沢庵宗彭と玉室宗珀が遠国に配流され、後水尾天皇は退位しました。(正面に後水尾天皇の勅額、左右に十六羅漢像が安置されています。)

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崇伝は、南禅寺塔頭の金地院と江戸城内の金地院を往還しながら政務を執り、その間には南禅寺や建長寺の再建復興にも尽力し、古書の収集や刊行などの文教事業も行いました。(奥には崇伝の木像が祀られています。)

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方丈の前に来ました。方丈前庭は蓬莱式枯山水庭園(特別名勝)で、「鶴亀の庭」と呼ばれています。徳川3代将軍・家光のために、小堀遠州が設計し寛永9年(1632)に完成しました。

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寛永10年(1633)崇伝は江戸城内の金地院で死去。享年65。崇伝の没後、一人で担っていた権能は分割され、寺社関係は寺社奉行を新設、外交関係は老中、長崎奉行が管掌、文教外交関係は朱子学の林羅山を祖とする林家が引き継ぎました。

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東照宮の高地の山林が大刈り込みとなり深山幽谷を表しているそうです。中央の大きな長形の平面石は、東照宮の遥拝石とされ、方丈から東照宮を礼拝する祭壇の役割を果たすとか。前面の白砂は海洋を表しています。

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右の鶴首石 安芸城主・浅野家より贈られた鶴首石は、船と陸路を牛45頭で運ばれてきたそうです。その右の土盛りは鶴島でその岸は羽石が三尊形式で組まれ、松が植えられています。

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中央奥には、蓬莱連山を表わす三尊石組(枯滝)が置かれ、郡仙島を表す石が点在しています。

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左の亀頭石 その奥から左に亀島があり、曲がった枝ぶりの槙柏(ビャクシン)が植えられています。亀島中央に亀甲石(三尊石)が組まれ、左端に亀尾石の立石があります。鶴と亀の石は互いに向かい合っています。

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庭の造営の指揮は小堀家の家臣・村瀬左介が行い、石は庭師の賢庭が据え付けたとされます。小堀遠州が設計したことが確認できる唯一の庭園で、造園史上重要な遺蹟となっているそうです。


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この庭は本来、方丈の上段の間から見渡せるように設計された額縁庭園だそうです。手前の白川砂敷きが広縁で隠され、苔地と正面石組の左右に亀鶴の石組が現れ、それらが迫って見えるといいます。

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以心崇伝は徳川幕府の基礎となる法制度を一手に作成し、それは政治家ではなく広い学識と鋭い洞察力を必要とする学者としての能力があったからだと思われます。(金地院を出て、外から見た東照宮の楼門)

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南禅寺が五山の別格となり、崇伝のような僧侶を輩出したのは、亀山上皇の発願文「禅林禅寺起願事」で宗派にとらわれず「日本で最も優れた禅僧」を南禅寺の住持とするよう定めたことによると思われます。

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