飛行神社と二宮忠八
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京阪八幡市駅から東に歩いて数分のところに、神社とは思えない近代的な建物の飛行神社があります。今日は、コロナ以前の9月末に訪れた記事を再編集してお届けします。
正面の鳥居はアルミ製で、航空機やロケットの本体や燃料タンクなどにはアルミ合金が使われています。
「飛行神社」は大正4年(1915)航空界の先駆者といわれる二宮忠八(1866-1936)がこの地の自宅邸内に創建したのが始まりです。以下では二宮忠八の生涯をたどりながら、神社創建の経緯を紹介します。
忠八は、幕末の慶應2年(1866)愛媛県八幡浜の海産物商の四男に生まれました。幼くして父を亡くし叔父の薬種商などを手伝いながら、物理や化学に興味をもち、測量技師の手伝いをするなど様々な経験や知識を得ました。
その頃、独学で独創的かつ奇抜な立体凧を作って人々の感心を集め、その凧は「忠八凧」と呼ばれました。上はF-104J戦闘機 (栄光)のターボジェットエンジン、下は 社務所と「二宮忠八資料館」。
明治20年(1887)丸亀歩兵連隊に入隊。四国山岳地帯で演習中に見た、烏が残飯を求め滑空する姿にヒントを得て、空を飛ぶ機械の発明を目指しました。下はパンフレットから。
以後、研究を重ねて明治24年(1891)日本人初のゴム動力による「カラス型飛行器」の飛行に成功しました。
次に人が乗れる「玉虫型飛行器」の考案に着手。明治26年(1893)に設計を完了して、軍で研究開発してもらおうと願い出ましたが却下されてしまいました。
忠八は独力で完成を決意して除隊、資金を得るため大日本製薬株式会社に入社して職工として働きました。会社では品質のよい薬品の製造に心を注ぎ、功績を上げて会社の発展に尽力しました。(社殿の横に萩の花が咲いていました。)
資金を貯え、自力での飛行機開発の条件が整い、明治33年(1900)京都府八幡町に土地を求めました。開発に努力していた明治36年(1903)思わぬニュースを聞くことになりました。(社務所と資料館)
ライト兄弟が飛行機を完成させ、飛行に成功したことを知りました(下の写真)。忠八は無念の涙を流し「飛行機を作ったとしても真似という評価しか受けない」と製作を断念したといいます。
資料館の入口、航空機、ロケット、宇宙探査機などの模型や書籍、二宮忠八の生涯に関する資料などが展示されていますが、内部は撮影できません。
その後、世界はいよいよ飛行機の時代へとなりましたが、飛行機による犠牲者も増えてきました。それを知った忠八は、同じ飛行機を志した人間として見すごすことはできないと考えました。(拝殿はギリシャ建築風です。)
その霊を慰めるために、大正4年(1915)私財を投じて自宅に社殿を造り、磐船社(交野市私市)より饒速日命(にぎはやひのみこと)の分霊を勧請したのが当神社の始まりです。(社殿の中央に祀られています。)
饒速日命は天照大神の孫神で、詔を受け十種神寶(とくさのかんだから)を授かり、高天原から豊葦原の中津国に降臨しました。その際に、天の磐船に32神を伴って、最初に河内国河上哮ヶ峯に天降りました。
忠八は自ら神職となり、航空安全と航空事業の発展を祈願しました。大正11年(1922)には軍部が忠八の業績を顕彰したことから、忠八は日本の航空機開発の先駆者として名声が高まりました。
右の「祖霊社」は、航空殉職者(航空事故で亡くなった方)や、航空先覚者(航空業界の技術革新に貢献した方)を祀っています。開発・発明、学業成就、合格祈願などを祈願します。
左の「薬光神社」には、日本の近代薬学の祖・長井長義(1845-1929)、薬学者・下山順一郎(1853-1912)、と忠八がともに働いた、武田長兵衛、田辺五兵衛、塩野義三郎など製薬会社の創業者の霊を祀っています。健康長寿・病気平癒を祈願します。
晩年は、空や飛行機を絵に描き、多くの詩を書き残しています。本当に飛行機が好きだったようです。昭和11年(1936)に亡くなり、檀家となっている男山の神應寺の見晴らしのよい墓地に葬られました(最後の写真)。
飛行神社は忠八の死によって一時廃絶しましたが、昭和30年(1955)次男の二宮顕次郎によって再建されました。拝殿の横に、かっての石標や顕彰碑があります。
現在の社殿、拝殿、社務所・資料館、鳥居などは平成元年(1989)飛行原理発見100周年を記念して、二宮顕次郎によって建て替えられました。「常盤稲荷神社」。
なお、二宮忠八の生涯は吉村昭の小説「虹の翼」に描かれています。下は零戦の機首部分、昭和58年(1983)に大阪湾岸和田沖で漁網によって回収されたものです。
現在では、航空自衛隊、航空機やロケットの関連業界、衛星通信会社などからも信仰され、資料館には各業界から奉納された模型などが展示されています。
JAXA(宇宙航空研究開発機構)も小惑星探査機「はやぶさ」の帰還時には参拝に訪れ、お世話になったそうです。最後の写真は男山の神應寺にある二宮忠八の墓。
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