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2022年9月21日 (水)

般舟院 皇室ゆかりの寺院と仏像の行方

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千本今出川の交差点の東、今出川通に面して天皇陵、嘉楽中学校、西圓寺が並んでいます。そこは、かつて般舟院(はんしゅういん、はんじゅういん)という寺院があった場所です。

「般舟院」は、山号を指月山、正式名称を「般舟三昧院(はんじゅざんまいいん)」という天台宗延暦寺派の寺院です。

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室町時代の1464年、後土御門天皇(1442-1500)は即位後、指月の里伏見殿に寺を創建、勅願寺としました。伏見殿は後土御門天皇が幼少の頃を過ごした離宮です。般舟三昧法を修したことから寺名となりました。(中学校の前に「禁裏道場蹟」の石碑があります。)

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また、当初は天台、真言、律、禅の四宗兼学道場に擬して造られたので、「禁裏道場」とも呼ばれました。寺は歴代二尊院住持により兼帯され、後花園天皇(1428-1464)など四天皇の分骨所になり、1492年典侍・庭田朝子を葬った後は多くの皇妃の墓が建てられました。

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庭田朝子は後土御門天皇に寵愛され、後柏原天皇、尊伝入道親王の生母となり、後に皇太后宮の称号が贈られました。上は西圓寺、下は宮内庁が管理する国有地「般舟院陵」です。

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安土・桃山時代の1595年豊臣秀吉の伏見築城に伴って、般舟院は現在地(大歓喜寺の旧地)に遷されました。この般舟院陵は般舟院とともに伏見から遷されたものとみられています。

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この年の台風(2018年)で松の木が倒れて参道をふさいでいました(9月9日)。

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般舟院陵には天皇や皇室の墓が20基(宝篋印塔、宝塔、無縫塔)あり、そのうち6基が治定外だそうです。この場合の治定とは宮内庁が認定するという意味です。(今回の台風21号による倒木は、根こそぎ倒れたケースが多かったといわれています。)

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ここには贈皇太后・庭田朝子の陵、後花園天皇、後土御門天皇、後奈良天皇などの分骨塔、嘉楽門院藤原信子(後花園天皇典侍で後土御門天皇母)、豊楽門院藤原(勧修寺)藤子(後柏原天皇典侍で後奈良天皇母)などの塔があります。

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陵墓を囲む塀の外に石仏が並んでいて、その一つは式子内親王(1149-1201)の塚といわれています。式子内親王は鎌倉時代の後白河天皇の第3皇女で、母は藤原季成の娘成子(高倉三位)です。1159年に賀茂斎院となり11年間仕えました。

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江戸時代までの般舟院は、「御黒戸四箇院」と呼ばれた宮中の仏事を司る四寺(他は廬山寺、二尊院、遣迎院)の一つでした。新しい住職が晋山(就任)する際には参内し、紫の衣が贈られるのが慣例でした。(中央の石仏が式子の塚とされます。)

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明治9年(1876)官令により寺の維持に適性を欠いたとして、歴代皇室の尊位牌は泉涌寺に遷されました。以後宮内庁からの保護料下付が停止され、大部分の寺地は嘉楽小学校(当時)の校地となり、かつての広大な寺地は東に縮小されました。藪の中の五輪塔

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中学校の前の「禁裏道場蹟」の石碑は、昭和55年(1940)に嘉楽同窓会が建てたものです。碑文に嘉楽中学校の名は、隣に墓がある嘉楽門院に由来していると書かれています。卒業生に歌手の都はるみさんがいます。

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平成23年(2011)11月28日般舟院の土地と建物が競売に掛けられ、北海道の不動産業者に所有権が移ったことが報道されました。寺院の土地や建物を担保に入れたり、売却したりするに必要な宗派の承認を得ておらず、天台宗は住職を僧籍剥奪処分としていました。

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その後、般舟院の名を残すため天台宗京都教区長が住職を代務していますが、宗派による再購入は高額で困難でした。般舟院には阿弥陀如来坐像と不動明王坐像(どちらも寺の創建よりも古い平安作の国の重要文化財)が安置されていましたが、一時行方不明になりました。

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結局、前住職の知人から「仏像を預かっている」と連絡があり、現在は市内の天台宗寺院に移して保管しているといわれています。文化財保護法で必要な重文の管理場所変更の届けがなく、同法違反で前住職は書類送検されました。

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前住職は、仏像を隠したのはやむを得なかったと話しています。一方、般舟院の資産台帳にあった仏像以外の絵画等200点は現在も所在不明となっています。(正面は競売前に建てられた鉄筋コンクリート製の新本堂。)

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その後、どのような経緯があったのかは報道されていませんが、現在では「西圓寺」という看板が掲げられています。この寺院は浄土真宗本願寺派というサイトもありますが、特定の宗派に属していない単立寺院のようです。

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この事件に関してまだ謎が残っています。天台宗が仏像の所在場所を明らかにしていないのは、担保など法的な混乱を避けるためとも思われますが、上京区のホームページには仏像は現本堂に保管されていると書かれています。

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「西園寺会館」という葬儀社が同じ住所に存在することになっていますが、「小さなお葬式」として知られる定額葬儀ブランドからしかアクセスできません。競売以前は寺で毎年地蔵盆が行われていましたが、現在どのような宗教活動をしているか不明です。

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さらに続きがあります。市内の寺社のことをよくご存じなAmadeusさんが、曼殊院で二つの仏像を拝観したそうです。庫裡から入り廊下の先の虎の間に、般舟院にあった不動明王像、大書院の奥の十雪の間に阿弥陀如来坐像が祀られていたそうです。

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その後、私が曼殊院を訪れたときには二つの仏像を拝観することはできませんでした。(般舟院の木造不動明王坐像、競売前に長らく東京国立博物館に寄託されていました。)

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仏像の行方とともに、現在の西園寺の状態は過渡的なものかも知れません。いずれは天台宗がこの地に般舟院を再興することを願っています。

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