初秋の南禅寺 三門と法堂
過去の全記事 2006年1月27日から毎日更新しています。
昨日の記事の永観堂を後に、南禅寺まで来ました。*今頃の記事を再編集しています。最後に9月の拝観情報があります。
三門の後ろには勅使門があります。江戸時代の寛永18年(1641)に明正天皇より、御所にあった「日の御門」を拝領したものです。
かっては天皇や勅使の来山のときに限って開かれる門でしたが、今では住持の晋山に限って開かれるそうです。「晋山」とは、新しい住職が就任するときの儀式です。(下は駐車場から)。
こちらは「中門」 関ヶ原の戦いの後の慶長6年(1601)、武将・松井康之より伏見城松井邸の門を勅使門として寄進されたものです。上の「日の御門」の拝領により、南に移されて幕末までは脇門と呼ばれていたそうです。
もう一度三門の前に。現在の三門は寛永5年(1628)に藤堂高虎が大阪夏の陣に倒れた家来の菩提を弔うために再建したものです。
三門の右手前の巨大な石灯籠 寛永5年の三門落慶の際に佐久間勝之が供養の為に奉献したもので、高さ6メートル余りの車洋一の大きさといわれています。俗に、佐久間玄藩の片灯寵と呼ばれています。
三門とは仏道修行で悟りに至る為に透過しなければならない三つの関門を表す、空、無相、無作の三解脱門を略した呼称だそうです。
山門とも書き表されて寺院を代表する正門で、禅宗の七堂伽藍(山門、仏殿、法堂、僧堂、庫裏、東司、浴室)の一つです。(久しぶりに三門に上ることにしました。)
上層の楼は五鳳楼といわれ、内陣には仏師左京等作の本尊・宝冠釈迦座像、その脇士に月蓋長者、善財童士、左右に十六羅僕を配置し、本光国師、徳川家康、藤堂高虎の像と一門の重臣の位牌が安置されています。
また天井の鳳凰、天人の極彩色の図は狩野探幽、土佐徳悦の筆とされています。(さすがに、ここからの眺めは絶景です。)
この三門は「天下竜門」とも呼ばれ、京都三大門と日本三大門の一つだそうです。(南の蹴上の浄水場)
京都三大門は他に知恩院の三門と東本願寺の御影堂門で、日本三大門はいろいろな組み合わせがあるようです。(西は左大文字)
先に現在の三門は再建されたものと書きましたが、南禅寺開創当時のものは永仁3年(1295)に西園寺実兼の寄進によって建立されました。(船形まで見えます。)
その後、応安年間(1368年~1374年)に新三門へと改築されましたが、文安4年(1447)の火災で焼失しました。(北の方には、金戒光明寺の山門と御影堂)
昨日の記事で登ってきた永観堂の多宝塔は、ほとんど木に埋もれていました。
楼上で石川五右衛門が「絶景かな絶景かな…」と見得を切る歌舞伎の場面は有名ですね。(東の方には法堂)
ただし、五右衛門は文禄3年(1594)に処刑され、三門が再建されたのは寛永5年(1628)なのでこの場面は創作です。(右は塔頭の正因庵)
この歌舞伎「金門五山桐(のちに楼門五三桐)」の初演は安永7年 (1778)で、三門が再建されてから150年たっています。(塔頭の天授庵)
その当時には既に、この三門からの眺めが絶景であることが知られていたのでしょう。(降りるときは滑りそうで、かなり怖いです。)
現在、三門は通常通りの拝観を行っています。拝観時間は、3月1日~11月30日、午前8時40分~午後5時、※拝観受付は拝観時間終了の20分前までです。9月はいくつかの行事がありますが、この後訪れる本坊の記事で紹介します。
三門の正面にある法堂に向かいます。 法堂は、法式行事や公式の法要が行われる場所で、南禅寺の中心となる建物です。
創建当時の法堂は応仁、文明の乱で焼失し、文明11年(1479)頃に復興されました。その後、慶長11年(1606)に豊臣秀頼の寄進により大改築されましたが、明治26年(1893)の火災によって焼失しました。(振り返って三門)
現在の法堂は明治42年(1909)に再建されたもので、内部の須弥壇上中央に本尊の釈迦如来、右に獅子に騎る文殊菩薩、左に象に騎る普賢菩薩の三尊像が安置されているそうです。
最後の写真は三門横にある塔頭の天授庵です。
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コメント
今年は、秋の深まりがなんとなく早い気がします。
大阪だけでしょうか。まだ9月になったばかりなのに、
はっきりと秋の訪れを感じます。残暑が短くなると嬉しいのですが・・・。
投稿: munixyu | 2022年9月 5日 (月) 15:37