南禅寺 初秋の禅庭園
過去の全記事 2006年1月27日から毎日更新しています。
一昨日の記事で、南禅寺の方丈庭園と小方丈庭園(如心庭)を見たあと、回廊を歩くといつくかの禅庭園に出会います。建物まわりの小さな空間も無駄にせず、そこに禅の精神を反映した枯山水が造られています。
本坊の拝観領域に六つ、外に一つの禅庭園があり、是非みておきたい場所です。
最初に如心庭の塀の向こうにに「蓬莱神仙庭」があります。変形した敷地に蓬莱山を表す石組と二つの州浜を配置したダイナミックな庭です。
蓬莱は中国の霊山、神仙はそこで悟りの境地を開いた仙人のことだそうです。この庭は旧南禅会館の裏手の坪庭の石を利用して、住職が作庭したとのことです。
同じ場所から回廊の先を見ると、「六道庭」があります。「如心庭」が解脱した心の庭であるのに対し、この庭は六道輪廻を戒める庭です。六道輪廻とは、天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄の六つの世界を生まれ変わり続けるという仏教の世界観を意味しています。
一面の杉苔の中に点在する景石から、悟りを得られず、煩悩に迷い、罪を犯す凡人のはなかさを表しているそうです。
この庭は昭和42年(1967)の作庭です。向こうの竹垣は南禅院の竹藪から孟宗竹を切ってきて太めの鉄砲垣を創作したもので、「大筒垣」と名づけられました。
回廊は山裾に沿って南北に延びていて、その北の端で昭和58年(1983)に建設された座禅会館の「龍渕閣」に繋がっています。
龍渕閣の建築に伴い、塔頭帰雲院が移転し、代わりに茶室・不識庵がこの地に移築されました。そして、三門の西にあった鞍馬石の巨石を運び込んで、豢龍池(かんりゅういけ)の池畔には十津川石の景石が配置されて、「龍吟庭」が造られました。
不識庵は、昭和29年(1954)の開基亀山法皇650年忌に茶道宗流八世宗有宗匠から寄進されたものです。なお、「豢龍池」とは龍を飼う池という意味で、龍渕閣や龍吟庭の名の由来となっています。
ここから回廊を南に戻ります。
龍渕閣の建築の際に、茶室・窮心亭(きゅうしんてい)が龍吟庭の南に新築されました。こちらは、宗偏流一門から寄進されたものです。
六道庭の東側にあった「南禅寺垣」をこの山際に移して、窮心亭からこのあたりの「華厳庭」が造られました。
なお、南禅寺垣とは、立子を胴縁に編みつけるようにした大津垣に、萩垣を間に入れた形の垣で、足元はさし石ですっきりとまとめているのも特徴だそうです。
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回廊の突き当たり、華厳庭の西にある「鳴滝庭」 方丈の東北の隅にあり狩野永徳が障壁画を描いた「鳴滝の間」の前庭になります。
この庭の隅にある大硯石 岐阜県で採掘された紅縞(めのう)で作られたもので、紅縞は今では掘り尽くされて大変貴重なものだそうです。
「還源(げんげん)庭」 向こうの蔵と方丈、書院に囲まれた狭い空間です。禅宗で、悟りの境地に至るまでの階程を牛と牧童との関係になぞらえた10の段階があります(図に描いたものが十牛図)。そのうちの9番目が返本還源(へんぽんげんげん)です。
返本還源は、原初の自然の美しさがあらわれてくることを意味し、悟りとはこのような自然の中にあると教えています。あと一歩で悟りを開く段階です。
以上で六つの庭を見て回りました。最後の一つは「大玄関庭園」です。本坊の拝観入り口の左手に唐破風の大玄関があります。この大玄関は特別な行事の時にのみ使用されます。
昭和45年(1970)に市電伏見線が廃止になったとき、軌道敷の板石が寺社に優先して払い下げられ、第1回の抽選会で南禅寺は見事に一番くじを引いたたそうです。この軌道板石を大玄関前に敷き、両側に樹木と景石を配置してあります。
その後市電が全廃され、軌道板石は小学校や大学の敷石、寺社の参道や庭石、公園の散策路、木造家屋の柱石、敷石、沓脱石(くつぬぎいし)など様々な場所に再利用されました。
二年坂、産寧坂、石塀小路、新橋通、白川南通(祇園白川)、哲学の道の石畳はこのような軌道板石(御影石)が用いられ、東山の情緒ある景観を作り出しています。
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コメント
悟りの世界とは、どういうものなのか。
知りたいような、知りたくないような、そんな気がします。
投稿: munixyu | 2022年9月 9日 (金) 20:38