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2022年8月 2日 (火)

丹後局の足跡をたどる

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

大河ドラマにあやかったわけではないのですが、今日は丹後局の足跡をたどります。断らない限り、写真は銀閣寺山門横にある浄土院で、丹後局との関係は後ほどにして最初はその歴史を簡単に。

「浄土院」は山号を清泰(せいたい)山という浄土宗知恩院派の寺です。大文寺山の送り火を管理してきた寺として知られ、「大文字寺」とも呼ばれています。

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このあたり一帯にはかって「浄土寺」とよばれる天台宗の寺院がありました。その創建年代等は分かっていませんが、平安時代中期の986年浄土寺で有明親王(醍醐天皇の皇子)の妃・藤原暁子が出家し、有明親王の子・明救(みょうぐ)も入寺しました。

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明救は幼くして出家して浄土寺に住し、比叡山の天台座主・延昌に師事しました。藤原道長の病平癒、中宮・藤原彰子御産、三条天皇の眼病平癒など宮中の祈祷なども行い、後に僧正、25世・天台座主となった人物です。

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室町時代の応仁の乱(1467-77)で浄土寺の多くの建物は焼失、さらに、文明14年(1482)足利義政により山荘・東山殿(後の銀閣寺)が造営され、浄土寺は相国寺の西へ移され、後に廃寺になったといわれます。

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浄土寺の跡地に残された草堂を泰誉浄久(たいよじょうきゅう)が浄土宗の寺として復興し、浄土院と名づけました。その後、江戸時代中期の享保17年(1732)には、随誉(ずいよ)により堂宇が再建され、今日に至ります。「地蔵尊?」

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高階栄子(たかしなのえいし)平安時代後期の仁平元年(1151)に生まれ、父は法印・澄雲とも上座・章尋ともいわれ、母は建春門院の乳母である平正盛の娘・政子(若狭局)とする説があります。丹後局は通称です。「仏足石」

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後白河法皇の側近の平業房の妻となり、権中納言となる山科教成(藤原実教の猶子)ら数名の子供を生みました。(本堂に祀られている本尊は「義政公の持仏」とされる阿弥陀如来坐像で旧浄土寺の遺仏、寺宝の黒仏「藤原仏」は旧浄土寺の本尊と伝えられています。)

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治承3年の政変で平清盛によって後白河法皇が鳥羽殿に幽閉されると、業房も解官の上、伊豆国に流罪に処されました。本堂脇の小堂に丹後局の木像が安置されています。

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しかし業房は脱走しようとしたため、怒った清盛の捜索によって捕らえられ、福原において処刑されてしまいました。その後、丹後局は鳥羽殿に幽閉された後白河法皇に近侍しました。

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もともと美貌の持ち主だったらしく、たちまちのうちに法皇の寵愛を得て養和元年(1181)10月には法皇の皇女・覲子内親王を産んでいます。城南宮の西鳥羽殿の跡地は史蹟「鳥羽離宮跡公園」になっています(下の写真)。

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同年清盛が死去し、丹後局は法皇の寵愛と信任を得た第一人者となり、政治にも介入するようになりました。『玉葉』では右大臣藤原兼実が丹後局のことを「この頃の政治は彼女の紅唇ひとつに左右される」と言及しています。

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著しい権勢とその美貌から、唐の楊貴妃にたとえられたそうです。(丹後局には6人の子供がいたそうです。)

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寿永2年(1183)7月、源義仲の攻勢の前に平氏が安徳天皇を奉じて都落ち。8月、法皇は安徳天皇を廃して新たな天皇を擁立、このとき後鳥羽天皇を進言したのが丹後局だったといわれています。しばらくは、後白河上皇の院御所だった「三十三間堂」

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若年の後鳥羽天皇に代わって土御門通親とともに朝廷の実権を掌握、平氏滅亡後は、法皇と鎌倉の源頼朝との調整役となり、大江広元とともに何度も交渉に当たっています。

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文治3年(1187)には従三位に叙されました。建久2年(1191)覲子内親王に院号宣下があって「宣陽門院」となると、丹後局は従二位となりました。

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建久3年(1192年)、法皇が崩御すると、丹後局も出家、法皇の遺言により山科に所領(山科荘)を与えられました。三十三間堂の前にある「後白河天皇法住寺陵」

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山科荘の屋敷の遺構は見つかっていませんが、山科区大宅山田にあったとされます。現在、「京都橘大学」が建っているあたりと推定されます。

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その後、朝廷の実権は若年の後鳥羽天皇に代わって丹後局と土御門通親が掌握しました。しかし、建仁2年(1202)に通親が死去し、さらに後鳥羽上皇が本格的に院政を開始すると、丹後局の威信は急速に失われました。

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その後、丹後局は宮中から去り、晩年は亡き夫・業房の所領にあった浄土寺に住まいしました。このため、「浄土寺二位」と呼ばれたそうです。

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没年は異説もありますが、建保4年(1216)2月(もしくは3月)が有力となっています。遺領の山科荘は次男の教成が相続し、これ以降教成の子孫は山科家の家名を名乗るようになります。

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山科家は大納言まで進官できる羽林家(うりんけ)の一で、南北朝期から内蔵頭(くらのかみ)を世襲、装束の調進を職掌とし、また御厨子所(みずしどころ)別当を兼帯して供御人(くごにん)を統括してきました。

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明治維新後は華族令施行により当主・言縄(ときなお)が伯爵位を賜り、上冷泉家とともに維新後も京都に本拠を置き続けている数少ない旧公家です。前当主・言泰(ときひろ)は、蹴鞠保存会の会長を務めました。

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山科家は宮廷装束の着付けを伝える「衣紋道(えもんどう)山科流」の宗家でもあります。皇室の洋風化もあって消えかけた古式の宮廷文化を、宮廷装束の調達や着付けを通じて伝統の継承に尽くしてきました。

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先日、皇居・宮殿で行われた「即位礼正殿の儀」では、天皇陛下や男性の皇族方は「束帯」、皇后雅子さまや女性の皇族方は「十二単」を身に着けていました。これらの厳かな儀式を陰で支えたのが衣紋道の技術を習得した人々でした。

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コメント

美貌というのも、いいのか悪いのか。
昔の人は、結局男の人に振り回されていた気がします。
富も権力も・・・。なんか哀れですよね。

投稿: munixyu | 2022年8月 2日 (火) 14:36

★munixyuさん こんばんは♪
丹後局も、必ずと言っていいほど有力な協力者と政治を動かしてきたようです。協力者に振り回されたのか、美貌に協力者が振り回されたのかは分かりません。

投稿: りせ | 2022年8月 6日 (土) 01:13

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