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2022年7月26日 (火)

数え歌でめぐる京都 寺御幸

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の数え歌は京都の東西の通りを数え上げたものでしたが、今日は南北の通りを歌った「寺御幸(てらごこう)」を紹介します。「丸竹夷」ほど知られていないのは、節(ふし)が現在では失われてしまったからだといわれています。

最初は二条通を「寺町」から西に歩きます。上は寺町通と、下は「御幸町通」との交差点。この通りは豊臣秀吉による天正の地割で新設された通り。由来は秀吉が大阪(あるいは伏見)から御所に参内する時に使ったためなど諸説あります。

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「てらごごふやとみやなぎさかい」 (寺町、御幸町、麩屋町、富小路、柳馬場、堺町) 「麩屋町通」との交差点、この通りは平安京の富小路にあたり、少し北に入ると薬師霊場「大福寺」があります。

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「富小路通」 平安京には存在せず、豊臣秀吉による天正の地割で新設された通り。 平安京にも同名の富小路がありましたが、なぜこのように名前が変わったか、理由は不明だそうです。

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「柳馬場通」 平安京の万里小路にあたり、秀吉の肝いりで造られた遊廓が慶長7年(1602)二条城の造営で六条に移転。柳が茂る跡地で2年後に豊国祭臨時祭礼の大規模な馬揃えが行なわれたのが名称の由来。(スクールバスが入る道がそれです。)

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「堺町通」豊臣秀吉による天正の地割で新設された通りで、名称は、戦国時代にはこのあたりが街と田畑との境界だったことに由来します。写真は二条通を逆に東に向かって歩いたときのもので、振り返って見た写真が多くあります。

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「たかあいひがしくるまやちょう 」 (高倉、間之町、東洞院、車屋町)「高倉通」は平安京の高倉小路にあたり、名称は通り沿いに藤原氏の別邸・高倉殿があったことに由来。

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「間之町(あいのまち)通」 秀吉の天正の地割で新設された通りで、高倉通と東洞院通の間に挟まれていることが名称の由来。

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右は「東洞院通」で、平安京の東洞院大路にあたります。平安時代には上皇・法皇の御所「洞院」が多くありました。江戸時代には幹線道路となり、混雑が激しいことから享保年間には北行き一方通行に規制され、日本最古の一方通行といわれます。

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「車屋町通」秀吉による天正の地割で新設された通り。東隣の東洞院通が竹田街道に続いて交通の便がよかったことから、車借などの業者が多かったことが名称の由来。

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「からすりょうがえむろごろも」 (烏丸、両替町、室町、衣棚) 「烏丸通(からすまどおり)」平安京の烏丸小路にあたり、南北の幹線道路の一つだったので「今朱雀」とも呼ばれました。

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「両替町通」平安京には存在せず、豊臣秀吉による天正の地割で新設された通りです。慶長5年(1600)徳川家康によって金座が設けられ、さらに慶長13年(1608)には銀座が伏見から金座の南に移転しました。

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「室町通」 平安京の室町小路にあたります。1378年に足利3代将軍義満が「花の御所」と讃えられた豪奢な室町殿を室町通今出川付近に造営したため、室町幕府、室町時代の名称が生まれました。

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「衣棚通」 平安京には存在せず、豊臣秀吉による天正の地割(1590)で新設、南の六角通から、北は後に延長されて加茂街道まで。三条以北を衣棚通と呼ぶのは、法衣などを棚売りする店が多数あったことに由来。

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「しんまちかまんざにしおがわ」 (新町、釜座、西洞院、小川) 「新町通」平安京の町小路(町口小路・町尻小路)にあたり、理由は不明ながら元亀から天正初年頃の1570年代前半にこの名に変わったようです。

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「釜座(かまんざ)通」 現在の三条釜座近辺に平安時代から釜師(茶釜や梵鐘などの鋳物職人)が住む「釜座」が集まっていたことに由来します。釜座は特権的な権利を認められた釡師の組合です。(ここまでが二条通を通っています。)

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「西洞院通」は平安京の西洞院大路に相当し、現在では京都駅で分断されています。右手前から奥は先日記事にした花屋町通で、西洞院通は横の通りです。

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「小川通」 押小路通と小川通との交差点北西、石標「此付近 閑院内裏址」 藤原冬嗣(795-826)によって創建され、庭内に泉が湧き,その閑雅な風情から「閑院」と名付けられたと考えられています。(写真は小川通の北から。)

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「あぶらさめがいでほりかわのみず 」(油小路、醒ヶ井(さめがい)、堀川) 「油小路通」 平安京の油小路に相当、写真は花屋町通から見たところで、正面は西本願寺派の名声寺、その右が油小路通。

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「醒ヶ井通」江戸時代まで洛中三銘水と謳われた「佐女牛井」(さめがい)と呼ばれる名水が、現在の堀川通りの五条を少し下がった所にあったことに由来しています。現在は六角通りより下 五条通りまでの間を指します。

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「堀川通」 平安京の堀川小路にあたり、一部区間には堀川を挟んで東堀川通と西堀川通がありますが、通常は西堀川通を堀川通と呼びます。下は西本願寺の門前です。

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「よしやいのくろおおみやへ」(葭屋町、猪熊、黒門、大宮) 「葭屋町(よしやまち)通」は豊臣秀吉の京都改造事業により天正年間に堀川通と猪熊通の間に新たに設けられた通り。通りの名称の由来は不明だそうです。(正面は出水通。)

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西本願寺の中門の前は「猪熊通」で、平安京の猪隈小路にあたり、北には玄武神社があります。左(西)は「元京都市立淳風小学校」の敷地です。花屋町通からみたところです。

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「黒門通」 豊臣秀吉による天正の地割によって新設された通り。通りの名は、秀吉によって築かれた聚楽第の東門「鉄(くろがね)門」の別名「黒門」に由来します。正面はは出水通。

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「大宮通」 平安京の大宮大路(東大宮大路)に当たり、途中竹屋町通と押小路通の間で二条城によってとぎれています。西本願寺の北を通る花屋町通から大宮通に出たところです。

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「まつひぐらしにちえこういん」(松屋町、日暮、智恵光院) 「松屋町通」 秀吉の天正の地割によって大宮通の一筋西に開かれた通り。下は二条城の北の竹屋町通からで、二条城の南は「下松屋町通」と呼ばれます。

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「櫛笥(くしげ)小路」は、平安京の南の十条通から北の松原通までの南北の通りで、 東寺の造営、後には豊臣秀吉による聚楽第の造営によって相次いで分断されました。

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「日暮通」 聚楽第の廃城後、江戸時代に二条城が造営されかつての櫛笥小路の北にあたる区間に日暮通が開かれました。下は二条城の北の竹屋町通から。

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「智恵光院通」 通りの南にある智恵光院の門前通りです。以下は今出川通りを歩いています。

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「じょうふくせんぼんさてはにしじん 」 (浄福寺、千本、西陣) 「浄福寺通」 南にある浄福寺の門前通りです。

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「千本通」は平安京の中心である朱雀大路を通り、大内裏が焼失したあと、船岡山西麓の葬送地への道に千本の卒塔婆を建て供養したのが通り名の由来。今出川通との交差点

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最後の「西陣」は通りの名ではなく、この辺りの西陣エリアで、下は北野天満宮です。今日は歌詞に出てくる全ての通りを載せました。葭屋町通、黒門通、松屋町通、日暮通はGoogleのストリートビューからの写真です。

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途中の歌詞に松屋町通と日暮通が出てくることから、この数え歌は家康が二条城を造営した以降、また寺町通から始まり新京極通(明治に開通)がないことから、それ以前に歌われたことが分かります。「粟餅 沢屋」

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コメント

通りの説明を見ていくと、
豊臣秀吉の影響が、今も残っていることになり、
豊臣秀吉の存在が大きく、より近くに感じられますよね。

投稿: munixyu | 2022年7月26日 (火) 18:02

★munixyuさん こんばんは♪
秀吉は関白・太政大臣となって、京都を拠点に公家として全国を統治しようと考えていたようです。そのため、京都の立て直しに力をいれたのでしょう。

投稿: りせ | 2022年8月 6日 (土) 00:54

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