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2022年7月28日 (木)

京の大仏 その変遷とわらべ歌

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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京都にも大仏があったことは今では広く知られています。かっては奈良東大寺より大きな大仏で、何度か倒壊(焼失)・再建を繰り返し昭和の時代まで存続しました。その変遷の歴史とわらべ歌「京の大仏さん」を紹介します。

豊国神社の隣に方広寺があり、初代の「京の大仏」がありました。大和大路通に面して入口があり、右の石標は「伝教大師御作、豊太閤護持 大黒尊天」。

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安土桃山時代の天正14年(1586)天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、松永久秀の焼き討ちにより焼損した東大寺大仏に代わり、方広寺と大仏(毘盧遮那仏)の建立に取り掛かりました。当初は東福寺の近くに計画されましたが、工事は途中で中止になりました。

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場所を蓮華王院北側にあった浄土真宗佛光寺の敷地に変更して工事を再開、文禄4年(1595)にようやく方広寺が完成しました。その寺域は、現在の豊国神社、国立博物館、三十三間堂、妙法院を含むほど広大でした。(下は近年に再建された本堂。)

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大仏殿は高さ49.2mの重層瓦葺、大仏は造営期間短縮のため、当初計画された銅造ではなく木製金漆塗坐像で、高さは東大寺大仏をしのぐ約19mありました。天台座主・青蓮院尊朝法親王が導師になり、八宗800人の僧(千僧会)を招いて開眼法要が営まれました。

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慶長11年(1606年) 作『豊国祭礼図屏風』、他の絵図に描かれた方広寺大仏殿と観相窓上部の破風の意匠などが異なっており、初代の方広寺大仏殿が描かれていると考えられます。

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しかし、慶長元年(1596)に起きた慶長伏見地震により、大仏は胸や左手が欠落してしまいました。このとき秀吉は「自らの身をも守れないのか」と大仏に対し激怒し、その眉間に矢を放ったと伝えられています。なおこのとき大仏殿は倒壊を免れています。(大黒天堂)

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慶長3年(1598)大仏(初代)は再建されましたが、その開眼法要を待たず秀吉は伏見城で死去しました。(大黒天尊像は伝教大師最澄が自ら刻み、鎧を身に着け、秀吉の護持仏だったとされます。)

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秀吉の遺志を継いで、子・豊臣秀頼が倒壊した方広寺の建物と、今度は銅製で大仏の再建を始めました。しかし、慶長7年(1602)鋳物師の過失により仏像が融解して出火し、大仏殿も炎上してしまいました。

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江戸幕府が開かれた後の慶長13年(1608)、秀頼は家康の勧めにより再び大仏殿と大仏の復興を始め、慶長17年(1612)大仏殿と銅造大仏(2代目)が完成しました。『愚子見記』に掲載されている2代目大仏の模式図。

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慶長19年(1614)には梵鐘が完成、南禅寺の禅僧文英清韓に命じて銘文を起草させ落慶法要を行おうとしました。ところが、徳川家康により梵鐘の銘文に「不吉な語句がある」として、法要が中止させられました(方広寺鐘銘事件)。

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銘文中の「国家安康」、「君臣豊楽」の語句に対して、南禅寺の祟伝らが「家康」の名を切り離して呪詛するものと主張しました。詳しい経緯は省略しますが、この事件を契機に徳川幕府にとって豊臣家が危険な存在だと思い知らされたといえます。

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大坂夏の陣(1615年)で豊臣家が滅亡した後も、方広寺と大仏は存続して妙法院常胤法親王が別当を兼職しました。(向うは秀頼が再建した大仏殿の柱にまかれていた鉄製の輪で、手前は屋根の一部にまかれていた金具。)

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1662年の寛文地震で金銅の大仏(2代目)が崩壊、寛文7年(1667)に木像の大仏(3代目)が完成しました。この木造大仏は胸像ですが、高さはそれまでの大仏と同程度だったようです。(金具の中は大仏の蓮弁の一部。)

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「大徳寺本尊釈迦如来座像」 方広寺3代目大仏の模像(縮小)であると、妙法院と大徳寺双方の文献記録に残っているそうです。江戸幕府が大仏再建に関与し、京都所司代の牧野親成の指示のもと、仏師玄信が大仏再建にあたったといわれています。

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その後の安永4年(1775)落雷により大仏殿が被災、後に修復。寛政10年(1798)には落雷により大仏殿、楼門、木造の大仏が焼失してしまいました。(豊国神社の塀にそって東へ行く通路があります。)

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3代目の大仏が寛政10年に焼失したあと、「京の大仏さん」というわらべ歌が流行しました。この大仏は130年にわたって親しまれてきたので、京の人々にとって焼失が大きな衝撃だったようです。「大仏殿跡緑地」

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「京の 京の 大仏つぁんは」「天火(てんび)で焼けてな」「三十三間堂が 焼け残った」「ありゃ ドンドンドン」「こりゃ ドンドンドン」「うしろの正面 どなた」*地方によっては「お猿 キャッ キャッ キャッ」と続きます。

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「かごめかごめ」と同様の遊び唄だったようです。最後の「お猿」が秀吉を揶揄したものかは分かりません。「世界の民謡・童謡」というサイトに、京わらべうたの会による「京の大仏ぁん」の歌の動画(YouTube)があります。

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江戸時代後期の天保年14年(1843)に、尾張国有志の寄進により、大仏殿が再建され旧大仏を模した高さ2mの木造半身像(4代目)が造仏、安置されました。資金不足のためか従前の大仏と異なり躯体に金箔が張られていません。

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明治時代になると、方広寺の境内の大部分は上知(没収)され、明治10年(1877)の豊国神社移転で、残った境内の大部分を失いました。大仏殿の南にあった「南大門」は、三十三間堂東の「南大門」、

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西にあった「西大門」は東寺に移築して現存、いずれも桃山時代建築の重要文化財に指定されています。(東隣に空地がありますが、ここも大仏殿の建物の範囲です。)

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昭和33年(1958)には大仏殿の改修が行われました。ところが、昭和48年(1973)の火事で天保以来の大仏殿と大仏は焼失してしまいました。安土桃山時代から、修造期間を除いても300年以上存続した「京の大仏」が失われてしまいました。

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平成12年(2000)から大仏殿跡の発掘調査が行われ、秀吉期と秀頼期の大仏殿の基壇がそれぞれ検出され、秀頼再建時に基壇を秀吉期より約1m外側に拡げ、大仏殿の規模が一回り大きくなったことが確認されました。

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コメント

コロナ禍の今こそ、
新しい令和の大仏がいるかもしれませんね。
なんとなくそんな気がします。

投稿: munixyu | 2022年7月28日 (木) 20:00

★munixyuさん こんばんは♪
法勝寺の十三重塔を京都のシンボルとして復活しようという話が財界から出たことがありました。大仏は信仰の対象なので、難しいのかも知れませんね。

投稿: りせ | 2022年8月 6日 (土) 01:06

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